『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

袈裟功徳

十種の糞掃

四種の糞掃あり、十種の糞掃あり。
 その糞掃をひろふとき、まづ不穿(フセン)のところをえらびとる。つぎには大便小便ひさしくそみて、ふかくして浣洗(カンセン)すべからざらん、またとるべからず。浣洗しつべからん、これをとるべきなり。
 十種糞掃衣。
 一、牛嚼衣(ゴジャクエ)。二、鼠嚙衣(ソコウエ)。三、火焼衣。四、月水衣。 五、産婦衣。六、神廟衣。七、塚間衣(チョウケンエ)。八、求願衣(グガンエ)。九、王職衣。十、往還衣(オウゲンエ)
 この十種、ひとのすつるところなり、人間のもちゐるところにあらず。これをひろうて袈裟の浄財とせり。三世の諸仏の讃歎しましますところ、もちゐきたりましますところなり。
 

【現代語訳】
 ぼろ布には四種があり、また十種があります。
 ぼろ布を拾う時には、先ず布の穴の開いていない所を選んで取ります。そして、大小便が長く染み込んで、洗っても落ちない布は取ってはいけません。きれいに洗うことが出来る布を取るべきです。
 十種の糞掃衣。
 一には牛の噛んだ服。二には鼠のかじった服。三には焼け焦げた服。四には月経で汚れた服。五には産婦が用いて汚れた服。六には神廟に捧げて捨てられた服。七には墓場に捨てられた死人の服。八には山野で神に祈願して捨てた服。九には国王が即位 灌頂の式を行った後に捨てた服。十には葬儀の時に死者に掛けていた服。
 この十種の服は人が捨てるものであり、人間が使用しないものです。これを拾って袈裟の清浄な衣材とするのです。この糞掃衣は過去 現在 未来の仏たちが賛嘆されるものであり、この仏たちが用いて来られたものなのです。
 

《初めの、「まづ不穿のところをえらびとる」というのは、前章2説の「身の行い」と「言葉や心」が一致しない人に対応するときの教えの例になっているようで、つまり、よくないところを取り立てて云々するのではなく、よいところを見るようにしなければならない、という話のようです。そこから、糞掃衣の話にもどります。
 袈裟の「四種」、「十種」についてのことは、先に第十一章2節にもありました。
 「十種」については、そこでも、ここの一~三と七の四種類が例としてあげてあり、ここで全部が示されたわけですが、「四種」については先にも示されませんでしたし、ここにもありません。先のところでは、第二十六章の縫い方による四種類かもしれないと考えましたが、ここにも何も書かれないのをみると、十種類を大きく括ると四種類になるということのような気もします。よく分からないのですが、何故か、諸注、いずれも触れてくれません。
 『読む』がここの「解」の冒頭に「人がいらないとして捨てたものは、人の欲がかかっていないから清浄である」と言っていて、なるほど、清浄とはそういうことかと腑に落ちました。
 つづけて、同書は、糞掃を集めようとする人々の「のどかな」エピソードをいろいろと挙げていて、いかにも古代だと思わされ、また、当時、糞掃衣を作ることがずいぶんと一般的なことだったのだと思わされます。
 


3 拾糞掃衣の法

 諸賢、猶ほ阿練若比丘(アレンニャビク)の、糞掃衣を持するに、糞掃の中の所棄の弊衣、或いは大便に汙(ケガ)れ、或いは小便洟唾(イダ)、及び余の不浄に染汙(ゼンナ)せられたるを見、見已(ミオワ)りて左手に之を執り、右手に舒(ノ)べ張りて、若し大便 小便洟唾及び余の不浄に汙さるる処に非ず、又穿たざる者をば、便ち裂きて之を取るが如し。
 是の如く諸賢、或いは一人有りて、身は不浄行に、口意は浄行ならんに、彼の身の不浄行を念ふこと莫れ、但だ当に彼の口意の浄行を念ふべし。
 若し慧者見て、設し恚悩を生ずとも、応に是の如く除くべし。」
 これ阿練若比丘の、拾糞掃衣の法なり。
 

【現代語訳】
 諸賢よ、それは、閑寂処に住む僧が糞掃衣を持つために、掃き溜めの中に捨てられたぼろの衣服を見て、もし大便や小便、 鼻水や唾、その他の汚物に汚れていたならば、それを左手で取って右手で広げ、大便や小便、 鼻水や唾、その他の汚物で汚れていない所、また破れていない所を裂いて、糞掃衣にする布を取るようなものである。
 このように諸賢よ、仮にある人が、身の行いは不浄で言葉と心の行いは清浄である時に、その人の身の不浄な行いを思ってはなりません。ただその人の、言葉と心の清浄な行いを思いなさい。
 もし智慧ある者が、そのような人を見て怒りの心を起こしたならば、このようにしてそれを除きなさい。」
 これが閑寂処に住む僧の、糞掃衣にするぼろ布を拾い集める方法です。
  

《「阿練若」は「人里離れ、比丘が修行するのに最もよい場所とされる」(『読む』)ところのことで、「阿練若比丘」は立派な修行僧ということでしょう。
 人の「不浄行」に対する「恚悩」は抑えなければならない(前節)のは、その立派な修行僧がぼろ布を見つけると、その酷く汚れたところは避けて、汚れていないところを使って袈裟を作るようなものなのだ、という教えです。
 好くないところは避けて、好いところを見なければならない、糞掃衣はそういうことも教えてくれるのだ、ということのようです。
 もっとも、ここで禅師はそういう教えを説いているのではなく、糞掃を見つけた時の取り扱い方、糞掃衣というものの考え方に重点が置かれているようで、以下、その糞掃衣の話になります。

2 身は浄行に、口意は不浄行

 中阿含経(チュウアゴンキョウ)に曰く、「復た次に諸賢、或いは一人有りて、身は浄行(ジョウギョウ)に、口意(クイ)は不浄行(フジョウギョウ)ならんに、若し慧者(エシャ)見て、設(モ)し恚悩(イノウ)を生ぜば、応当(マサ)に之を除くべし。
 諸賢、或いは一人有りて、身は不浄行に、口意は浄行ならんに、若し慧者見て、設し恚悩を生ぜば、応当に之を除くべし。
 当に云何が除くべき。
 

【現代語訳】
 中阿含経に言うことには、「また諸賢よ、仮にある人が、身の行いは清浄で言葉や心の行いが不浄である時、もし智慧ある者がこの人を見て怒りの心を起こしたならば、この怒りは除かなければならない。
 諸賢よ、仮にある人が、身の行いは不浄で言葉と心の行いが清浄である時、もし智慧ある者がこの人を見て怒りの心を起こしたならば、この怒りは除かなければならない。
 それでは、どのようにして除けばよいか。
 

《ここで突然別の話が飛び出します。「身の行い」と「言葉や心」が一致しない人に向き合った時のこちらのあり方の話です。
 行いは立派だが、言葉や心が仏の心に外れている人、つまり格好だけはつけるが、真実みのない人といったところでしょうか。
 また、言葉や心は立派だが、行動が伴わない人、つまり口先では好いことを言うが、実行しない人、でしょうか。
 そういう人に向き合った時、心ある人は、とりあえず怒りを覚えるだろうが、その時、心ある人は、その怒りを抑えなくてはならないのだと言います。
 引用の冒頭に「復た」とありますが、「中阿含経」では、こういう例が行・口・意をそれぞれ組み合わせて六つ挙げられているそうです(『読む』)。
 さて、どのようにして抑えるのか。何故抑えなければならないのか。そしてそれは袈裟とどういう関係があるのでしょうか、…。

1 経律論

 それ最第一清浄(ショウジョウ)の衣財(エザイ)は、これ糞掃衣なり。その功徳、あまねく大乗小乗の経律論のなかにあきらかなり。広学咨問すべし。その余の衣財、またかねあきらむべし。
 仏仏祖祖、かならずあきらめ、正伝しましますところなり、余類のおよぶべきにあらず。

 【現代語訳】
 そもそも、最も第一に清浄なころも(袈裟)は、捨てられたぼろ布で作った糞掃衣です。その功徳は、広く大乗や小乗の教えを説いた経・律・論の中に明らかに説かれています。その功徳について広く学び、教えを乞いなさい。その他の衣についても、また合わせて学び明らかにしなさい。
 代々の仏や祖師方は、このことを必ず明らかにして正しく伝えてこられたのです。これは他の門流の及ぶ所ではありません。

《糞掃衣を袈裟の中の最上のものとすることは、すでに幾度か語られてきました(十一章2節、二十六章)。どうも、この巻はこのような繰り返しが多いように思われます。
 「その余の衣財、またかねあきらむべし」は、先の第二十三章に、袈裟には、糞掃だけではなくさまざまな布を使って作ったものがあるということが語られて、獣の皮で作ることもある、という話などもありましたが、特に学ばなければならないような話は語られていなかったと思います。
 「経律論」は「仏の説いた経と、仏の定めた律と、教義を検討した論」(コトバンク)ですが、それによって、様々な袈裟の種類を学び、それらがどういうものであり、それぞれ功徳がどれほどのものであるかということを学べ、ということのようですが、それにしても、ここの話は、「経律論」以外は目新しい話ではなく、どうしてこの一節がここにあるのか、例えば前の「十勝利」とどのように関わる話なのか、よく分かりません。
 そしてそのことは、実は次の節もどうようの思いを抱かされます。》

 

行者の猛利恆修にあらず

この十勝利、ひろく仏道のもろもろの功徳を具足せり。長行偈頌(ジョウゴウゲジュ)にあらゆる功徳、あきらかに参学すべし。
 披閲(ヒエツ)してすみやかにさしおくことなかれ、句句にむかひて久参すべし この勝利は、ただ袈裟の功徳なり、行者の猛利恆修(ミョウリゴウシュ)のちからにあらず。
 仏の言はく、「袈裟の神力(ジンリキ)は不思議なり。」
 いたづらに凡夫賢聖(ケンショウ)のはかりしるところにあらず。おほよそ速証法王身のとき、かならず袈裟を著せり。
 袈裟を著せざるものの、法王身を証せること、むかしよりいまだあらざるところなり。

 

【現代語訳】
 袈裟の、この十の優れた利益には、広く仏道のすべての功徳が具わっています。ここに説かれた様々な功徳を明らかにして学びなさい。
 この功徳を読んで、すぐそのままにして置くことはいけません。その一つ一つについて、久しく学んでいきなさい。
 この優れた利益は、ただ袈裟の功徳によるものであり、修行者の勇猛精進の力によるものではないのです。
 釈尊が言うことには、「袈裟の具えている神力は不思議である。」と。
 その力は、凡夫や賢人聖人には計り知ることの出来ない 
 袈裟を着けていない者が、仏身を悟った例は、昔からまだないのです。

 

《途中の「この勝利は、ただ袈裟の功徳なり、行者の猛利恆修のちからにあらず」というのが、刺激的です。
 「猛利恆修」は「猛烈で鋭利で恒常的な修行」(『読解』)ですが、思うに、それが不要だと言っているのではないでしょう。そういう修行の姿は、何もないところに人の内面から生じてくるものではない、袈裟を身にまとうことによって自然に生じてくる、あるいは、袈裟をまとわなければ生じてこないものだ、ということではないかと思われます。
 「猛利恆修」の方が、袈裟の力によって生じてくる、というわけです。
 坐禅をしなくてはならない、袈裟を着なければならないと、禅師は、常に形から入ることを教えます。心にさえ真実があれば、姿形はどうでもよいと、むやみに心の優越を強調した日本の戦後民主主義・個人主義(もっとも、それはあまりに形を強調した戦前の教育への反動ではあったのですが)とは遠く隔たる考え方で、形がその姿を作り、内面を作り、本質を自ずと作っていく、と考えるわけです。
 なお、「長行偈頌」は、「長行とは、散文をもって記された経の文であり、「偈頌」は「韻文」の意味、と『全訳注』が注しています。
 また「速証法王身」は先の偈(原文は漢文)の最後の一句です。


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