『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

十六

2 虚も無く亦実も無し

 是の時、仏義品(ギボン)の偈を説いて言(ノタマ)はく、
「各各(オノオノ)究竟と謂ひて、而(シカ)も各(オノオノ)自ら愛著(アイジャク)し、各自らを是(ゼ)として他を非とす、是れ皆究竟に非ず。
 是の人論衆(ロンジュ)に入りて、義理を辨明する時、各各相ひ是非し、勝負して憂喜(ウキ)を懐(イダ)く。
 勝者は慢坑(マンギョウ)に堕(ダ)し、負者(フジャ)は憂獄(ウゴク)に堕す。
 是の故に有智(ウチ)の者は、此の二法に堕せず。
 論力、汝当に知るべし、我が諸の弟子の法は、虚も無く亦実も無し。
 汝何(イズ)れの所をか求めんと欲(オモ)ふ。
 汝我が論を壊せんと欲はば、終(ツイ)に已(スデ)に此の処(コトワリ)無し。
 一切智明らめ難し、還って是れ自ら毀壊(キエ)せん。」
 

【現代語訳】
 この時、仏は義品経の詩句を論力に説いた。
「おのおのが究極と考えて、そしておのおの自ら愛著し、おのおの自分が正しく他を誤りとするならば、これは皆究極ではない。
 この人たちは、論議の人々の中で道理の是非を論じる時、おのおの互いに是非し合ってその勝負に一喜一憂する。
 勝者は慢心におちいり、敗者は憂いの地獄に沈む。
 このために智慧ある者は、この勝ち負けの二法に堕ちることはない。
 論力よ、おまえは知らなければならない、私の弟子たちの法は、無いとも言わず、又有るとも言わないのである。
 おまえは何を求めようとしているのか。
 おまえが私の論を破ろうとしても、もはやこの勝ち負けというものは無いのである。
 一切を知る智慧は明らかにし難い。勝ち負けを争えば、かえって自分を壊してしまうことだろう。」と。
 

《「帰依入道」した論力に釈尊は改めて教えを説きます。
 是非を言い合っているうちは、まだ「究竟」に到達しているとは言えない、「我が諸の弟子の法は、虚も無く亦実も無し」、…。
 以前引いたことのある文章を再度書いてみます。
「皆が肩をよせあって、こうだこうだ、そうだそうだ、といっている間は、それはまだ個別的な教養習得の過程に過ぎない。…皆が直接的に同一性を確かめあえる次元こそが、実は個別的なのである。普遍は次の段階にあらわれてくる。…ほとんど絶望的な孤独地獄の中に暗室にさしこむ一筋の光りのようにおとずれるものだ」(高橋和巳『自立と挫折の青春像』)
 「虚も無く亦実も無し」を『提唱』は「何かを否定するという風な態度もなければ、何かだけを取り上げて固執するというふうな態度もない」と訳しています(『全訳注』はそのまま「虚もなく実もない」)が、虚実は非と是ではないように思われます。語ろうとして語れない、しかし確実なものとしてその人の中に光が差し込むように入ってくる、または表れてくるもの、というようなことを言っているのではないでしょうか。香厳撃竹の逸話のように、また『風景開眼』の画家のように。
 なお、「義品の偈」は、ここではそういう名前の経があるような訳になっていますが、『提唱』は「さまざまな教えの優劣」を説いた詩としていますし、『全訳注』は「義理を説いた韻文」と訳しています。
 そうして、さて、禅師の結びの言葉になります。》


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1 如来在世に外道あり、論力と名づく

 如来在世に外道あり、論力(ロンリキ)と名づく。自ら謂(オモ)へり、論議与(トモ)に等しき者無く、其の力最大なりと。故に論力と云ふ。
 五百梨昌(リショウ)の募(ボ)を受けて、五百の明難を撰し、来って世尊を難ぜんとして、仏所に来至(ライシ)し、仏に問いたてまつるに云はく、
「一究竟道(イチクキョウドウ)とやせん、衆多(シュタ)究竟道とやせん。」
 仏言(ノタマ)はく、「唯一究竟道なり。」
 論力言はく、「我等が諸師は、各(オノオノ)究竟の道有りと説く。外道の中、各自らを是(ゼ)と謂(オモ)ひ、他人の法を毀訾(キシ)して、互いに相ひ是非するを以ての故に、多道有り。」
 世尊其の時、已(スデ)に鹿頭(ロクトウ)を化(ケ)し、無学果を成じて、仏辺に在りて立つ。
 仏論力に問ふ、「衆多の道の中、誰をか第一と為す。」
 論力 云はく、「鹿頭第一なり。」
 仏言(ノタマ)はく、「其れ若し第一ならば、云何(イカン)ぞ其の道を捨てて、我が弟子となり、我が道中に入るや。」
 論力見已(ミオワ)りて、慙愧低頭(テイヅ)して、帰依入道す。
 

【現代語訳】
 如来(釈尊)が世に在りし時に、論力という名の外道がいた。その外道は、自ら論議することに於て同等の者は無く、その力は最も勝ると思っていたので、論力と名乗っていたのである。
 論力は、五百人のビシャリ国民の募金を受けて、五百の難問を選び、世尊(釈尊)を非難しようと仏(釈尊)の所にやって来て質問した。
「究極の道は一つですか、それとも多数ありますか。」
 仏は答えて、「究極の道は唯一つです。」
 論力が言うには、「我等の諸師は、おのおの究極の道があると説いています。外道の中では、おのおの自分の説が正しいと考えて他人の法を謗り、互いに是非し合っているので多くの道があります。」
 世尊(釈尊)はその時、すでに鹿頭を教化し、鹿頭は阿羅漢の悟りを得て仏(釈尊)のそばに立っていた。
 仏は論力に尋ねた、「その多くの道の中では、誰が一番勝れていますか。」
 論力が言うには、「鹿頭が一番勝れています。」
 仏が言うには、「もし鹿頭が一番勝れているのなら、どうして鹿頭はその道を捨てて私の弟子となり、私の道の中に入ったのでしょうか。」
 その時論力は、鹿頭の姿を見て自らを恥じて頭を垂れた。そして仏に帰依し仏道に入った。
 

《ずいぶん他愛のない話のように思えます。「梨昌」は「離車族という。毘舎離を構成していた部族」(『全訳注』)だそうで、その一族の応援を受けて釈尊のところに論戦を挑んできた、論力という者がいました。彼は「一究竟道とやせん、衆多究竟道とやせん」という大変な問いをぶっつけます。
 現代人なら間違いなく「衆多究竟道」と答えるところでしょうが、釈尊は、これまた当然ながら「唯一究竟道なり」と答えました。
 それに対する論力の質問が、我々の仲間ではお互いに自分が正しいと言って、他を批判し合っている(のだから)、「多道」と言うべきではないのか、…という、何とも他愛のないもので、驚いてしまいます。
 自分たちそうだからと言って、それが究極のものであるという保証は何もないわけで、質問になっていないと言うべきではないでしょうか。
 それに、自分たちを「外道」と呼んでどうするか、という気もします。
 また、後段のやり取りも、どうも子供じみた感じが拭えません。募金を受けるなど周到な準備をして出かけたであろう論力が、仲間の中で一番と目していた鹿頭がすでに釈尊の門に入っていたことを知らなかったというのも変ですし、それで最後には「帰依入道」したというのですから、何とものどかなやり取りだという気がします。
 これも先にあった「止観輔行伝弘決」からの引用だそうです。

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提多迦の出家

第四祖優婆毱多(ウバキクタ)尊者、長者の子あり、名を提多迦(ダイタカ)といふ。来りて尊者を礼(ライ)し、出家を志求す。
 尊者曰く、「汝身の出家なりや、心の出家なりや。」
 答えて曰く、「我出家を求むるは身心の為に非ず。」
 尊者曰く、「身心の為にせず、復誰か出家する。」
 答えて曰く、「夫れ出家は、我我所(ガガショ)無し。我我所無きが故に、即ち心生滅せず。心生滅せざるが故に、即ち是れ常道なり。諸仏も亦常なり、心形相(ギョウソウ)無く、其の体も亦然り。」
 尊者曰く、「汝当に大悟して心自ら通達すべし。宜しく仏法僧に依りて聖種(ショウジュ)を紹隆(ショウリュウ)すべし。」
 即ち与(タメ)に出家受具せしむ。
 

【現代語訳】
 釈尊から第四祖、優婆毱多尊者の所に、長者の子で提多迦という者が来て、尊者を礼拝して出家を願い出た。
 尊者が言うには、「あなたが願うのは身の出家か、それとも心の出家か。」
 提多迦答えて、「私が出家を願うのは、自分の身や心のためではありません。」
 尊者は尋ねて、「自分の身心のためでなければ、一体誰が出家するのか。」
 提多迦答えて、「そもそも出家者には、私も私の所有物もありません。私も私の所有物も無いので、心は生じることも滅することもありません。心は生じることも滅することもないので、これは恒常不変の道です。諸仏もまた恒常であり、心に決まった姿はなく、その本体もまた同様です。」
 尊者の言うには、「それなら、あなたは先ず大悟して心を自ら知りなさい。そして仏法僧に従って聖者の種を受け継ぎ、繁栄させなさい。」
 そこで尊者は提多迦を出家させ戒を授けました。
 

《二人目の祖師の出家の話です。前の話と違って、これは難問です。
 「汝身の出家なりや、心の出家なりや」という問いが、身近でありながら含みがありそうで、なかなか面白く、普通に考えれば、もちろん「心の出家」ですと答えねばならなさそうです。
 それに対して、「我出家を求むるは身心の為に非ず」というのがまた、そう来たか、という答えで、読む者は、さて、その心は、と、ちょっと座り直す感じです。
 「我我所無し。我我所無きが故に、即ち心生滅せず」は驚くべき言葉で、その心は「道元禅師が坐禅のことを『身心脱落』といわれておった思想と同じことを意味する」(『提唱』)と言えそうです。彼は、出家する前に、すでに十分に出家者であったわけです。
 逆に、それだから出家するのだと考えれば分かりやすいでしょうか。出家即菩提は、出家=菩提であるわけですから、=(イコール)の前後は、どちらであっても同じ、ということで、この人の場合は、たまたま菩提の方が先だった、…。》


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3 長沙批判~3

 業障本来空なりとして、放逸に造業(ゾウゴウ)せん衆生、さらに解脱の期あるべからず。
 解脱のひなくば、諸仏の出世あるべからず。諸仏の出世なくば、祖師西来すべからず。祖師西来せずば、南泉あるべからず。南泉なくば、たれかなむぢが参学眼(サンガクゲン)を換却せむ。
 また如何是業障と問するとき、さらに本来空是(ホンライクウゼ)と答する、ふるくの縛馬答(バクメトウ)に相似なりといふとも、おもはくは、なむぢ未了得の短才をもて、久学の供奉(グブ)に相対するがゆゑに、かくのごとくの狂言を発するなるべし。
 

【現代語訳】
 業障は本来実体が無いと考えて、勝手気ままに悪業をつくる人々には、決して解脱の機会はありません。
 解脱の時がなければ、諸仏が世に出現することもありません。諸仏が世に出現しなければ、祖師達磨も中国にやって来なかったことでしょう。祖師達磨が中国に来なければ南泉(普願)もいなかったのです。南泉がいなければ、誰が長沙の仏道を学ぶ眼を正してくれたでしょうか。
 また皓月が「悪業の障りとはどういうものでしょうか。」と尋ねた時に、さらに長沙が「本来実体が無いということである。」と答えたことは、昔の縛馬答(要領を得ない問答)に似てはいますが、思うに、長沙がまだ悟りを得ていない乏しい才で、久しく学んだ皓月供奉に相対したために、このような狂言を発したのでしょう。
 

《やはり、「業障」(仏道精進に対しての人の行動が生みだした障害・私の理解した解釈です)は実在する、ということのようです。
 人間の行った行動の善悪の報いは、必ず「三時業」として顕現する、行動が善であったならばその報いによって解脱への道が開かれます。
 それはいいのですが、ここの冒頭の一文によれば、「放逸に造業せん衆生」は「解脱」がないと言っていて、逆から言えば、同じ「造業」するにしても、「業障本来空」をいいことに「放逸に造業」したのでなければ、解脱の可能性があるということのようです。
 つまり、うっかりして犯した悪行、また、悪だと承知しながらやむを得ず行われた悪業、あるいは後になってあれは悪業であったと当人が認めた悪業などは、解脱の障りとはなっても、決定的阻害となるのではなく、一定の報いを受けることによって解脱への道が開けるのだ、と言っているように思われます。
 ちょっと思いがけない柔軟な考え方、というか妥協的・現実的な考え方のように見えて、普段の禅師の厳格な断定的な発想とは異なるような気もしますが、
ちなみに、『全訳注』の原文には、ここにはない次の一節があって、後の第十八章に続いています。
「懺悔するがごときは、重を転じて軽受せしむ。また滅罪清浄ならしむるなり。善業また随喜すれば、いよいよ増長するなり。これみな作業の黒白にまかせたり」。

 そういうレベルでは、「空」ということはないのであって、条件を整えさえすれば、必ず解脱の道がある、という宇宙の摂理があるからこそ、過去においての諸仏の悟道があったのであり、祖師西来があり、南泉がいたのです、…。


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2 長沙批判~2

 皓月が問は、業不亡(ゴウフモウ)の道理によりて、順後業のきたれるにむかふて、とふところなり。
 長沙のあやまりは、如何是本来空と問するとき、業障是(ゴウショウゼ)とこたふる、おほきなる僻見なり。
 業障なにとしてか本来空ならむ、つくらずば業障ならじ、つくられば本来空にあらず。
 つくるは、これつくらぬなり、業障の当体をうごかさずながら、空なりといふは、すでにこれ外道の見なり。
 

【現代語訳】
 皓月の問いは、業はなくならないという道理によって、過去世の悪業の報いが来ることに対して尋ねたのです。
 長沙の誤りは、皓月が「本来実体が無いとは、どういうことでしょうか。」と尋ねた時に、「悪業の障りのことである。」と答えたことで、これは大きな僻見と言うべきです。
 業障がどうして、本来実体が無いものと言えましょうか。悪業を作らなければ業障は無いでしょうが、作れば実体が無くはありません。
 悪業をつくることは、つくらないのと同じであると言ったり、業障そのものを動かさずに、それには実体が無いと言うのは、すでに外道の考えです。
 

《皓月は「業障」の深い意味を知らないままに問うたのであったにしても、「業不亡の道理」(業が三時に亘って因果を及ぼすことを言っているのでしょう)を踏まえての問いであったことは、当然でしょう。
 さて、長沙の答えは「業障」は「本来空」だというものでしたが、禅師は、そんなことはありえないのであって、「業障」は自分の手で作るもので作られたものは、「空」であることはない、と言います。
 たとえば、「三障」のうちの「煩悩障(貪り怒り愚かさなどの煩悩による障り)」は、いわば意識の問題ですから、空とも言えそうですが、実際に行われた行為やその結果は確かに空とは言いがたいようにも思われます。
 意識界は空だが、行動界は実在する、…? いや、「空」というのは、そんな部分的な話ではないでしょう。
 ともあれ、禅師は、この問答の前提とされた「了ずれば即ち業障本来空」(第十五章)を否定して、あの二人の祖には、前世において「業障」があって、処刑はその結果だ、つまり順後次受業なのだ、と言っているようですが、そういうことなのでしょうか。》

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