如来在世より今日にいたるまで、菩薩声聞(ショウモン)の経律(キョウリツ)のなかより、袈裟の功徳をえらびあぐるとき、かならずこの五聖(ゴショウ)功徳をむねとするなり。
 まことにそれ、袈裟は三世諸仏の仏衣なり。その功徳無量なりといへども、釈迦牟尼仏の法のなかにして袈裟をえたらんは、余仏の法のなかにして袈裟をえんにもすぐれたるべし。
 ゆゑいかんとなれば、釈迦牟尼仏むかし因地のとき、大悲菩薩摩訶薩として、宝蔵仏のみまへにて、五百大願をたてましますとき、ことさらにこの袈裟の功徳におきて、かくのごとく誓願をおこしまします。その功徳、さらに無量不可思議なるべし。
 しかあればすなはち、世尊の皮肉骨髄いまに正伝するといふは、袈裟衣なり。正法眼蔵を正伝する祖師、かならず袈裟を正伝せり。
 この衣を伝持し頂戴する衆生、かならず二三生(ショウ)のあひだに得道せり。たとひ戯笑(クショウ)のため利益(リヤク)のために身に著(ヂャク)せる、かならず得道因縁なり。
 

【現代語訳】
 釈尊が世に在りし時から今日まで、菩薩や声聞の学ぶ経典や戒律の中から、袈裟の功徳を数え上げる時には、必ずこの五つの優れた功徳が第一に挙げられるのです。
 まことに袈裟は、過去現在未来の仏たちが身に着けている仏の衣であり、その功徳は計り知れないものですが、この釈尊の法の中で袈裟を得たならば、その功徳は他の仏の法の中で袈裟を得るよりも優れていることでしょう。
 何故ならば、釈尊が過去世で菩薩の修行をしていた時には、大悲菩薩となって宝蔵仏の前で五百の大願を立て、その中で特にこの袈裟の功徳について、このような誓願を起こしたからなのです。そのためにこの功徳は、更に計り知れないものとなったのです。
 このように、釈尊の皮肉骨髄を今日に正しく伝えているものは、袈裟の衣なのです。ですから、仏法の真髄を正しく伝える祖師は、必ずこの袈裟を正しく伝えてきたのです。
 この衣を相伝して護持し頂戴する人々は、必ず次の生か、或いは次の次の生までの間に仏道を悟ることが出来るのです。たとえ戯れに袈裟を着けたとしても、或いは自分の利益のために袈裟を身に着けたとしても、それは必ず仏道を悟る因縁となるのです。
 

《初めの一文は、要するに、袈裟の功徳とは、(他にいろいろ言われてはいるが)まず第一に前述の五つの功徳を言うのだ、ということなのでしょう。
 以下、もちろん昔から出家者は袈裟を身に着けていたので、誰の袈裟も尊いものではあるが、中でも釈尊の袈裟は、宝蔵仏の前に誓願をたてられたものであるから、その価値は計り知れないものがあるのだ、…。
 途中、「しかあれば」は語法上は「そうであるから」という意味ですが、ここでは「このように」と訳されていて、ちょっとへんです。
 ただ、「そうであるから」と訳すと、前節は、釈尊の袈裟が他の人の袈裟に比べて最もありがたい、という話でしたから、それは「釈尊の皮肉骨髄を…」の理由根拠にはならないように思われます。そこでここでは、あえて「このように」と漠然とした訳にしてあるのでしょう。
 ここは、要するに、釈尊の袈裟が最も尊く、同時にその袈裟が「仏法の神髄正しく伝えてきた」のだということを承知すればいいのでしょう。
 そしてその袈裟の素晴らしい効能が語られ、次章はその例話になります。

訳文中、「菩薩」は布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧を行じて修行する者、「声聞」は仏の説法を聞いて修行する者を指すと、訳者の注が付されています。》