『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

二十一

2 善星~2

 善男子、善星比丘若し出家せずんば、亦善根を断じ、無量世に於いて、都(スベ)て利益(リヤク)無からん。今出家し已りなば、善根を断ずと雖も、能く戒を受持し、耆旧(ギキュウ)長宿有徳(ウトク)の人を供養し恭敬(クギョウ)し、初禅乃至四禅を修習せん。是を善因と名づく。
 是の如くの善因、能く善法を生ず。善法既に生ぜば、能く道を修習せん。既に道を修習せば、当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。是の故にわれ善星が出家を聴す。
 善男子、若し我善星比丘の出家受戒を聴さずんば、則(スナハチ)我を称して如来具足十力と為すことを得じ。
 善男子、仏は衆生の善法及び不善法を具足することを観たまう。是の人是の如くの二法を具すと雖も、久しからずして能く一切の善根を断じ、不善根を具せん。
 何を以ての故に。是の如くの衆生は、善友に親しまず、正法を聴かず、善思惟せず、如法に行ぜず。是の因縁を以て、能く善根を断じ、不善根を具す。」
 

【現代語訳】
 善男子よ、善星がもし出家しなかったならば、彼は善根が断たれて、未来永劫に利益が無いことであろう。今彼は出家しているので、善根を断つとしても、戒を保ち、先輩長老高徳の僧を供養し敬い、初禅から四禅までの禅定を修めるであろう。これを善因と呼ぶのである。
 この善因は善き法を生じるのである。善き法が生じれば仏道を修めることが出来るのである。仏道を修めれば阿耨多羅三藐三菩提(仏の無上の悟り)を得るであろう。それで私は善星の出家を許したのである。
 善男子よ、もし私が善星の出家を許さなかったならば、人々が私のことを褒めて、如来は優れた能力を具えているとは言わないであろう。
 善男子よ、仏は人々が善きものと善からざるものを具えていることを観察し知っている。この善星も、この二つを具えているが、そのうちにすべての善根を断って、不善の心を起こすことであろう。
 何故なら、このような人は善い友に親しむこともなく、正法を聞くこともなく、善い考えもせず、法のように行じないからである。これらの因縁によって、人は善根を断ち不善の心を生ずるのである。」と。
 

《出家を許した第一の理由は、世の中のためということでしたが、更にもう一つの理由を挙げます。
 仮に出家しないままでいて「善根」(仏になる可能性となる善い行い)を捨てたならば、仏になる一切の可能性を失うことになるだろう(以前、出家をしていれば、たとえ悪事を働いても、出家していたという功徳によって涅槃に導かれる、とありました)、…。
 そしてもし私が彼の出家を許さなかったら、人々は、かえって私に「十力」(「如来の有する十種の力である。その中の第四に、衆生の機根の上下優劣を知る力があり、いまは、そのことをいう・『全訳注』)がなかったと考えるだろう、…。もちろんこのことは、釈迦が自分の名誉のためにしたことだと言っているのではなく、普通の人が見ても明らかに必要なことであったのであり、それほどに出家ということは尊いことなのだ、と強調しているわけでしょう。
 「衆生の善法及び不善法を具足する」というのは、当たり前のことなのですが、考えてみれば、善不善を考えなくてはならないのは人間だけで、他の動物においては、そのことは全て本能の中に組み込まれている、いわば「万法に証せられ」ているわけです。人間だけが、その正しい判別をするための努力をしなくてはならないというのは、そこにこそ人間として生きる意味合いがあるとは言え、まことに痛切なことです。
 もし、他の動物と同じように、生き方における過ち(不善)ということがなかったら、人間はどのような生き方をするのでしょうか。いや、これは別の問題です。
このエピソードに対して、以下、禅師の解説があります。》

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

1 善星~1

 如来般涅槃(ハツネハン)したまふ時、迦葉菩薩、仏に白(モウ)して言(モウ)さく、「世尊、如来は諸根を知る力を具足す、定めて善星(ゼンショウ) 当に善根を断ずべきを知りたまへり。何の因縁を以てか、其の出家を聴(ユル)したまえる。」
 仏の言(ノタマ)はく、「善男子、我往昔に於いて、初め出家せし時、吾弟難陀(ナンダ)、従弟阿難(アナン)、調達多(チョウダッタ)、子羅睺羅(ラゴラ)、是の如くの等輩(トモガラ)、皆悉く我に随って出家修道せり、我若し善星の出家を聴さずんば、其の人次に当に王として王位を紹(ツ)ぐことを得ん。其の力自在にして、当に仏法を壊すべし。是の因縁を以て、我便ち其の出家修道を聴せり。
 

【現代語訳】
 釈迦如来が般涅槃(仏が亡くなること)される時、迦葉菩薩は仏にお尋ねになりました。「世尊よ、如来は人々の能力 性質を知る力を具えておられます。ですから、きっと善星が自ら善根を断つことを知っておられたことでしょう。それなのに、なぜ善星の出家を許されたのでしょうか。」
 仏が答えて言うには、「善男子よ、私が昔出家した頃、我が弟の難陀、従弟の阿難や提婆達多、子の羅睺羅など、これらの者たちが、皆私に従って出家し修道したのである。私がもし善星の出家をゆるさなければ、彼は次に王位を継ぐことになったであろう。そうなれば、彼はその力を思うままにして、仏法を壊してしまうであろうと考えたのである。それで私は善星の出家を許したのである。
 

《この章は、全文が漢文で、「大般涅槃経」の一節の引用(『全訳注』)で、摩訶迦葉の問いに釈迦が答えた話です。
 突然話が変わりますが、「善星」は、釈迦が皇太子の頃にもうけた三人の息子のひとりのようです(上の二人は、優波摩那と羅睺羅・「weblio辞書」)。そして、「仏弟子の一人で、また四禅比丘という。よく四禅にまでいたったが、悪友に交り、ために仏に悪心をいだいて無間地獄におちたという」(『全訳注』)という人です。
 迦葉の問いは、普通には釈迦の失敗を批判する、ないしは嫌みを言っていることになりそうですが、彼にはそういう気持ちは毛頭なく、純粋な疑問として、さらにはきっと何か自分たちの思い及ばない配慮・洞察があるに違いないと考えて、教えを乞うという意味での問いなのでしょう。
 釈迦は、善星が「善根を断ずべき」ことを予見できなかったのではなく、それを予見した上で、彼をそのままにしておくと王位に就くことになって、そうすると、「其の力自在にして、当に仏法を壊すべし」と考えたので、出家させた方がよいと考えたのだと語ります。いささか不純な理由と考えられますが、出家という絶対的価値の前には、このくらいのことは問題ないのでしょう。以下更に詳述されます。》


にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
 

2 慧稜~2

三十年来かつて郷土にかへらず、親族にむかはず、上下肩(ジョウゲケン)と談笑せず、専一に功夫す。師の行持は三十年なり。
 疑滞を疑滞とせること三十年、さしおかざる利機といふべし、大根といふべし。励志の堅固なる、伝聞するは或従経巻(ワクジキョウカン)なり。
 ねがふべきをねがひ、はづべきをはぢとせん、長慶に相逢すべきなり。実を論ずれば、ただ道心なく、操行(ソウギョウ)つたなきによりて、いたづらに名利には繋縛(ケバク)せらるるなり。
 

【現代語訳】
 長慶は、三十年来 決して郷土に帰らず、親族に会わず、僧堂の両隣の人と談笑せず、専一に精進しました。師の修行は三十年でした。
 疑問を疑問として抱き続けること三十年というのは、差し置くことのない優れた人物と言うべきであり、大根気と言うべきです。このように志の堅固な人を伝え聞くのは、経典の中ぐらいのものです。
 我々は、願うべきを願い、恥じるべきを恥じようとするなら、この長慶に出会うはずです。ところが、実際には、ひたすら道心も無く、修行も疎かなので、徒に名利に縛られるのです。
 

《先日、たまたまNHK・TVで「永平寺 禅の世界」という番組を見ましたが、そこに写された場面のような生活です。そこにも、永平寺で十九年過ごしているという雲水がいましたが、ここは更に長く、三十年専一の「功夫」で、感嘆に値します。
 私は画面を見ながら、作務と坐禅だけの毎日、というのは、昔の農夫や漁師、あるいは工芸の職人と同じではないか、というようなことを考えていました。
 勿論そこには、坐禅はありませんが、丹念に一粒ずつの種をまいていく時、あるいは、思いを凝らして釣り糸を垂れている時、漆器に一筆を引く時、それは坐禅における没我の状態に似ているのではないか、…。
 逆に、あのようなテレビを見ていると、「十九年」などという長さは、気が遠くなるような長さに思えるのですが、しかし反面、文字通りまともに「疑滞を疑滞とせること三十年」などということをしたら、とても持たないのではないか、そこには自ずとそこに生きる要領というようなものが生まれ身についてしまうのではあるまいか、などと俗なことを思ってしまいます。
 そして、そういう中で本当にそういうことができた人がいるとしたら、それはもう、鉄人とでも言うべき、素晴らしい精神力と言うべきでしょう。》


にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

1 慧稜~1

 長慶の慧稜(エリョウ)和尚は、雪峰下の尊宿なり。雪峰と玄沙とに往来して、参学すること僅(キン)二十九年なり。その年月に、蒲団二十枚を坐破す。
 いまの人の坐禅を愛するあるは、長慶をあげて慕古(モコ)の勝躅(ショウチョク)とす。したふはおほし、およぶすくなし。
 しかあるに、三十年の功夫むなしからず、あるとき凉簾(リョウレン)を巻起せしちなみに、忽然(コツネン)として大悟す
 

【現代語訳】
 長慶の慧稜和尚は、雪峰門下の有徳の師です。雪峰と玄沙とに往来して、ほぼ二十九年学びました。その年月に、坐禅の蒲団を二十枚 坐り破ったといいます。
 今日、坐禅を愛する人があれば、長慶の名を挙げて、慕うべき優れた先人であると言います。長慶を慕う者は多いのですが、それに及ぶ者は少ないのです。
 しかし、長慶の三十年の精進は無駄ではありませんでした。ある時すだれを巻き上げていると、たちまち大悟しました。
 

《三十人目です。
 「蒲団二十枚を坐破す」が素晴らしいエピソードです。大学時代に、某仏文科の学生が四年間の在学中に仏和辞典を三冊ボロボロにした、とか聞いて感嘆したことがありますが、どちらがすごいでしょうか。やはり、ただ坐るだけで破る方が上かなと思います。
 ちょっと違いますが、大学受験の高校生が、一日にボールペン一本を使い尽くすという目標を立てたという話も聞きました。実現したかどうか定かではありませんが、その意気や壮とすべきです。
 「したふはおほし、およぶすくなし」もまた、グサリとくる一句です。
 そして終わりの「凉簾を巻起せしちなみに、忽然として大悟す」も、名高い香厳の「撃竹大悟」に劣らない、いかにもありそうな情景で、画材にいいのではないかと思われます。
 ちなみに、凉簾は、涼やかな簾ではなくて、普通名詞で「僧堂の前門・後門に、夏季の間かける、細く割った竹で編んだすだれ」(『行持』)なのだそうですが、「涼」の字が大悟にふさわしく思われます。
 横道ですが、別に、「綿布モテ簾ノ面ヲ覆ヒテ、風気ヲ防グ」という暖簾(ナンレン)というものがあるようで、それが近世以降に「のれん(暖簾)」となったのだそうです。


にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

2 宏智~3

 おほよそ仏道に登入(トウニュウ)する最初より、はるかに三界の人天(ニンデン)をこゆるなり。三界の所使にあらず、三界の所見にあらざること、審細に咨問すべし。
 身口意(シンクイ)および依正(エショウ)をきたして、功夫参究すべし。
 仏祖行持の功徳、もとより人天を済度(サイド)する巨益(コヤク)ありとも、人天さらに仏祖の行持にたすけらるると覚知せざるなり。
 

【現代語訳】
 およそ僧は、仏道に入る最初から、遙かに世間の人々を越えているのです。僧は世間に使われるものではなく、世間に見られるものではないことを、詳しく尋ねなさい。
 身の振る舞い、話す言葉、心に思うこと、そして自分の身体と環境のすべてを使って修行に精進しなさい。
 仏祖の行持の功徳には、もともと人間界天上界の人々を済度する大きな利益があるのですが、人間界天上界の人々は、少しも仏祖の行持に助けられているとは自覚しないのです。
 

《第二十一章からの、仏道と「人天」、「俗の能」と「僧の徳」は決定的に異なるものだ、という一連の話の結びです。
 仏道世界はそこに心を向けたその時から、三界(「いっさいの衆生の生死輪廻する三種の迷いの世界。すなわち、欲界・色界・無色界」・コトバンク)とは決定的に異なるものなのだ、ということを、しっかりと自覚しなければならない。
 「仏祖行持の功徳、もとより人天を済度する」ということについては、「発菩提心」巻で語られた「自未得度先度他」という考え方を言うのだと思われますが、出家者はそういう行いをしているのだけれども、一般の人はそのことに気付かないでいる、…。
 例えば『蜘蛛の糸』の物語で、釈迦は犍陀多の目の前に蜘蛛の糸を垂らして極楽に招くのですが、実は、私たちの目の前にもしばしばそうした糸が垂らされているのだ、というようなことでしょうか。
 しかし私たちはそれが極楽へ招かれた糸であることに気付かないままに、あたら大きな機会を逃しているのかも知れません。
 しかし、その中に、時にそれに気づく人がいるわけで、そういう人が出家します。例えば『発心集』巻三の讃岐源太夫のような人かと思われます。
 「仏道に登入」した人は、そのように「人天」から知られずとも、それは世界の決定的相違であることを「審細に咨問」して、ひたすらに自らの修行に励むことを考えなくてはならないのだ、…。》


にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

プロフィール

ikaru_uta

カテゴリー
  • ライブドアブログ