『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

二十二

善星~3

しるべし、如来世尊、あきらかに衆生の断善根となるべきをしらせたまふといへども、善因をさずくるとして、出家をゆるせたまふ。大慈(ダイズ)大悲なり。
 断善根となること、善友にちかづかず、正法をきかず、善思惟せず、如法に行ぜざるによれり。いま学者、かならず善友に親近(シンゴン)すべし。
 善友とは、諸仏ましますととくなり、罪福ありとをしふるなり。因果を撥無(ハツム)せざるを善友とし、善知識とす。
 この人の所説、これ正法なり。この道理を思惟する、善思惟なり。かくのごとく行ずる、如法行なるべし。
 しかあればすなはち、衆生は親疏をえらばず、ただ出家受戒をすすむべし。のちの退不退をかへりみざれ、修不修をおそるることなかれ。これまさに釈尊の正法なるべし。
 

【現代語訳】
 知ることです。如来世尊は、明らかに善根を断つ人々を知っておいでになるのですが、そのような人でも、善因を授けるために出家を許されたのです。これは如来の大慈悲心からなのです。
 人々が善根を断つ原因は、善い友に親しまず、正法を聞かず、善い考えをせず、法のように行じないことにあります。今仏道を学ぶ人は、必ず善い友に親しみなさい。
 善い友とは、諸仏はいらっしゃると説く人であり、悪行には罪報があり 善行には福報があると教える人です。因果の道理を無視しない人を善い友といい、善い師というのです。
 この人の説く教えは正法であり、この道理を思惟することは善い考えであり、このように行じることは法に適った行いなのです。
 ですから人々の親疎を選ばず、もっぱら出家受戒を勧めなさい。その後の修行が続くか続かないかを顧みてはいけません。精進不精進を気に掛けてはいけません。これはまさに釈尊の説かれた正法なのです。
 

《禅師の解説です。以上のことから、まず、釈迦は、善星が将来不善を犯すであろうことはお見通しだったのだが、それでも、いや、むしろそれだからこそ彼の数少ない「善因」となるように出家をさせたのだ、ということが分かるではないか、…。
 したがって、また、道を学ぼうとする者は、「諸仏まします」と信じ、「罪福ありとをしふる」ような人と親しみ、出家に導いてもらわなくてはならないのだということも、わかるであろう、…。
 ということなのだから、出家である私たちは、衆生に対しては、「ただ出家受戒をすすむべし」、その後にその者たちの中には、仏道を捨てたり、仏道を怠けたりする者もでてくるであろうが、出家をするということ自体が「善因」になるるのだから、そういうことにこだわる必要はないのだ、と禅師は説きます。
 いい人が何時までもいい人であり続けることは難しい、「♪人間生きてりゃ いつか身につく 垢もある」、それはそれで仕方がない、その時のために、できるうちに出家受戒しておくがいい、それがいつか善因となるのだ、…。確かに「大慈大悲」だという気がします。
 今をよりよく生きることが仏法だ、と言ってしまうとひどく軽くなってしまいますが、深く広いところでそういうことなのでしょう。》


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2 爲山~2

 梵刹(ボンセツ)の現成を願(ガン)せんにも、人情をめぐらすことなかれ、仏法の行持を堅固にすべきなり。修練ありて堂閣なきは、古仏の道場なり。
 露地樹下(ジュゲ)の風、とほくきこゆ。この処在ながく結界となる。まさに一人の行持あれば、諸仏の道場につたはるなり。
 末世の愚人、いたづらに堂閣の結構につかるることなかれ、仏祖いまだ堂閣をねがはず。自己の眼目いまだあきらめず、いたづらに殿堂精藍(ショウラン)を結構する、またく諸仏に仏宇を供養せんとにはあらず、おのれが名利の窟宅(クッタク)とせんがためなり。
 

【現代語訳】
 寺院の建立を発願するにしても、人情を巡らすことなく、仏法の行持を堅固にするべきなのです。仏道の修練があって立派な建物が無いのは、昔の仏祖の道場です。
 仏祖の露地樹下の家風は遠くまで聞こえて、この場所は長く聖域となるのです。このように、正に一人が修行すれば、それは諸仏の道場に伝わるのです。
 末法の世に生きる愚かな人間は、徒に立派な建物の建立のために疲労してはいけません。仏祖は立派な建物を願わなかったのです。自己の法の眼を明らかにしないで、徒に立派な寺院を建立しようとする者は、全く諸仏に仏の家を供養しようというのではなく、それを自分の名利の住み家にしようとしているのです。
 

《やはり、「おおいに宗風を揚げ」た後においても、名藍」を建てることには、細心の注意をしなくてはならないようです。
 あくまでも「人情」によってはならず、純粋に「仏法の行持」のためでなくてはならないと、釘が刺され、「修練ありて堂閣なき」こそが「古仏の道場」であるとされます。
 それにしては、当時立派な「堂閣」が多すぎる、と禅師の目には写ったようで、厳しい批判の言葉を言わずにはおけなかったようです。
 二度ほど永平寺に参拝したことがありますが、入り口で案内の雲水の方が、ここは修行道場ですので、国宝とかといったものはありませんが、どうぞゆっくり、と言われて、なるほどと思ったものです。そういう意味で、「堂閣」ではないということなのでしょう。
 「末世の愚人」は、諸注、この一文の主語のように扱っていますが、これは「末世の愚人たちよ」、という呼びかけの言葉ではないかという気がしますが、どうでしょうか。同じこととも言えますが。

 

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1 潙山霊祐~1

 大潙山(ダイイサン)大円禅師は、百丈の授記より、直(ジキ)に潙山の峭絶(ショウゼツ)にゆきて、鳥獣為伍(イゴ)して、結草修練す。風雪を辞労することなし、橡栗充食(ショウリツジュウジキ)せり。
 堂宇なし、常住なし、しかあれども、行持の見成(ケンジョウ)すること、四十年来なり。のちには海内(カイダイ)の名藍として、龍象(リュウゾウ)蹴踏するものなり。
 

【現代語訳】
 大潙山大円禅師(潙山霊祐)は、百丈(懐海)の法を受け継いでから、すぐに険しく聳える潙山に行き、鳥獣を友として草庵を結び修練しました。風雪の苦労も辞せず、とちの実や栗を食料にしました。
 大きな建物は無く、寺の備品も十分ではありませんでしたが、それでも行持が行われること四十年余りでした。後には天下の名刹として、優れた修行者たちが往来したのです。
 

《三十一人目のエピソードで、ここも禁欲の教えです。
 これまで幾度か語られてきたように、この人も、「授記」(「師家が弟子に、将来菩薩(悟り)の果を受けることを認可すること」・『行持』)を受けると、「直に」険しい山奥にこもりました。『行持』によればそれも師・百丈の命であったようです。そこで人との交わりを断ち、粗食に甘んじ、粗末な住まいで「修練」しました。
 そして四十年余の行持の末に、どうやら彼は「名藍」を建てたようです。『行持』によれば「おおいに宗風を揚げ」、彼を開山として密印寺と同慶寺という二つの寺が創建されたと言います。それを同書は「(この叙述は)潙山の長い年月の労苦と教化の盛行をとよく指摘している。…(それは)その行持の力、その功徳によるというのである」と言います。
 しかし、そんなふうに話を結んでは、結局、立派な寺を建てることが立派な僧であることの証ででもあるかのようで、初めの「結草修練す」は何だったのかと思われ、苦学生の立身出世譚のように見えます。
 自分のための「堂宇」ではなく、修行の場としての「名藍」なら問題ないということかも知れませんが、できれば、そういう立派な寺を作ったけれども、彼は名目的に主であっただけで、最後まで脇の茅屋に住んだのだった(そうであったのかどうか、分かりませんが)、というような話がほしい気がします。》

 


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1 宏智~2

 この天童山は、もとは小院なり。覚和尚の住裏に、道士観、尼寺(ニジ)、教院等を掃除(ソウジョ)して、いまの景徳寺となせり。
 師遷化(センゲ)ののち、左朝奉大夫(サチョウブダイフ)侍御史(ジギョシ)王伯庠(オウハクショウ)、ちなみに師の行業記(ギョウゴウキ)を記するに、ある人いはく、「かの道士観、尼寺、教寺をうばひて、いまの天童寺となせることを記すべし。」
 御史いはく、「不可なり、此の事、僧の徳に非ず。」ときの人、おほく侍御史をほむ。
 しるべし、かくのごとくの事は、俗の能なり、僧の徳にあらず。
 

【現代語訳】
 この天童山は、もとは小さな寺院でした。それを正覚和尚が住持している間に、道教の寺院や尼寺、教院などを取り除いて、今の景徳寺にしたのです。
 正覚和尚が亡くなった後、左朝奉大夫侍御史の王伯庠が、ゆかりで師の伝記を記した時に、ある人が言うには、「師は、あの道教の寺や尼寺、教院を奪い取って、今の天童寺(景徳寺)にしたことを書いてください。」と。
 侍御史はそれに答えて、「それはいけない。このことは、僧の徳行ではない。」と言いました。そこで当時の人の多くが侍御史を褒めました。
 知ることです、このようなことは、俗人の能力であって、僧の徳行ではないのです。
 

《前節から続いて宏智にまつわる話ではありますが、彼自身のことではなく、彼の行業記を書くことになった王伯庠という人の適切な認識が讃えられています。
 もともと太白山(前節)には小さな寺(『行持』によれば「天童寺」と号した)の他に「道教の寺院や尼寺、教院」があったようで、宏智がそれらを「掃除」して(後の人は「うばひて」と言っています。どちらにしてもなかなかの言い方です。ちなみに『行持』は「整理して統合」して、としています)、今の景徳寺という立派な寺にしたということがあったようです。
 周囲の人からそれを功績として行業記に書くように勧められた王伯庠が、決然としてそれを断った、と言います。
 なぜか。『提唱』は他の寺を「奪った」などということは「僧侶としてけっしてほめた話ではない」からだと言いますが、どうなのでしょうか。後でそれは「俗の能」だと言って、一つの能であることは認めているようですから、「奪った」というそのやり方を言うのではなくて、寺を大きくしたこと自体を「俗の能」だと言っているのではないでしょうか。
 「僧の徳」とは、あくまでも当人自身が道を究めるという孤独な行為をおいて他にないのだという、清廉な認識によって王伯庠が讃えられている、というふうに読むところなのではないでしょうか。》


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袈裟の体色量

 袈裟をつくるには、麤布(ソフ)を本とす。麤布なきがごときは、細布をもちゐる、麤細の布ともになきには、絹素(ケンソ)をもちゐる。
 絹布ともになきがごときは、綾羅(リョウラ)等をもちゐる。如来の聴許なり。絹布綾羅等の類、すべてなきくにには、如来また皮袈裟を聴許しまします。
 おほよそ袈裟、そめて青黄赤黒紫色ならしむべし。いづれも色のなかの壊色(エシキ)ならしむ。如来はつねに肉色(ニクシキ)の袈裟を御しましませり。これ袈裟色(ケサシキ)なり。
 初祖相伝の仏袈裟は青黒色(セイコクシキ)なり、西天(サイテン)の屈眴布(クツジュンフ)なり。いま曹谿山にあり、西天二十八伝し、震旦五伝せり。いま曹谿古仏の遺弟(ユイテイ)、みな仏衣の故実を伝持せり、余僧のおよばざるところなり。
 

【現代語訳】
 袈裟を作るには、本来、粗末な麻や綿の布を使用します。粗末な麻や綿の布が無い場合は、きめの細かい麻や綿の布を使用します。どちらも無い場合には、白絹を使用します。
 麻や綿、白絹も無ければ、上等なあや絹やうす絹などを使うことを釈尊は許しています。それらの物がすべて無い地域では、釈尊は皮の袈裟の使用を許しました。
 およそ袈裟は、青、黄、赤、黒、紫色に染めて、どの色も壊色(黒ずんだ色)にします。釈尊は常に肉色の袈裟を使用されました。これが袈裟の色です。
 中国の初祖、菩提達磨が伝えた仏袈裟は、青黒色のインドの屈眴布(木綿の花心を集めて織った布)でした。それは今、曹谿山にあり、インドで二十八代、中国で五代を経て伝来したものです。現在、曹谿の古仏、六祖慧能の法を嗣ぐ弟子たちは、皆 仏袈裟の古来の作法を伝えています。これは他の僧の及ばない所です。
 

《ここから袈裟の「体色量」についての話です。
 袈裟は元来粗末な布切れで作るもので、ここでは、それがない場合は、と、だんだんに上質の布が挙げられて、それでも許されている、と、通常の感覚とは逆になります。
 「麤」は、鹿が三つ重なった字で、「しかの群は羊のように密集しないところから、遠くはなれる、あらいの意味をなす」(『漢語林』)のだそうです。
 皮でも好いというのは、さすがにちょっと意外な気がします。
 内緒事ですが、先に第六章にあり、第十一、十二章でも語られた話の類ですので、まとめて出てくると読みやすかったのに、と思ってしまいます。
 材質の次は色の話です。青、黄、赤と言われると、ずいぶん派手な色のように思いますが、さすがにそのままではなく、それぞれの色の黒ずんだもの、とされます。
 『読む』が、「とにかく、世間の人が見て、『いいな』『立派だな』『効果だな』と思わないようなものを」と意図したのだと言いますが、現在は曹洞宗でも時々真っ赤な袈裟も見ることがあるように思います。時代が下るにつれて、袈裟は権威や格式を表すようになって、色も材質も次第に目立つものに変わっていったということなのでしょう。
 「体色量」の話は、二十六章まで続きます。》


 

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