洞山悟本大師道(イハク)、「行不得底(ギョウフトクテイ)を説取し、説不得底を行取す。」
これ高祖の道(ドウ)なり。その宗旨は、行は説に通ずるみちをあきらめ、説の行に通ずるみちあり。
しかあれば、終日とくところに終日おこなふなり。
その宗旨は、行不得底を行取し、説不得底を説取するなり。
【現代語訳】
洞山悟本大師が言うことには、「行(ギョウ)ずることが出来ないことを説き、説くことが出来ないことを行ずる。」と。
これが高祖洞山の道です。その教えの主旨は、行は説かれたことに精通する道を明らかにし、説かれたことには行に精通する道があるということです。
ですから、終日説いて終日行うのです。
その教えの主旨は、行ずることの出来ないことを行じ、説くことの出来ないことを説くということです。
《十七人目、洞山悟本(八六九年沒)で、先の雲巌曇晟の話(第八章3節)に出てきた人です。
ここは、初めの悟本の言葉が、行と説が互いに補完し合う関係にあるということを言っているように見えるところを、最後の一句において、禅師が、それを逆転させて、それぞれが独立しているのだと説いているところが要点だと思われます。
その点を『提唱』が「どうしても実行できないようなことを何とかして実行しようと思ってがんばって」おり、「どうしても理論的に説明できないものを何とかして説明しようとしてがんばっておる」のが「われわれの日常」である、と言います。
『行持』は、「私見によれば」としながら、悟本の言葉が「『行』に代わって『説取』せよ、…『説』に代わって、『行取』せよという意味にも解されることを慮って、行と説の相違・一如によって、行の説からの自立・独立を失うことなく、行は行としての一貫性に徹し、説も行からの自立・独立を失うことなく、説は説としての一貫性に徹すべきことを説示したものと考える」と言い、「行取と説取との独立が尊重されるべきを、その『宗旨』として」懇切に注意したものと考えられる」と言います。
行を徹底して行き着いた行き止まりの先に、忽然と別世界が見える、説においても然り、といったようなことでしょうか。
唐木順三先生は、禅の説明でよくそういう説明をされました。話としては分かり易い説明で、私たちはそれをまねして「論理の行き着いた果てに忽然として見える自己の根源的姿が実存なのだ」などと話したものでした。
それはともあれ、改めて読み返してみると、悟本の言葉はやはり補完的な関係にあると説いているように読むのが自然に思われて、その解釈はあくまで禅師の考え、禅師の独創なのではないかと思うのですが、どうなのでしょうか。》