『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

三十

3 道一~4

 南嶽いかにしてかこの道得ある、江西いかにしてかこの法語をうる。
 その道理は、われ向南行(コウナンコウ)するときは、大地おなじく向南行するなり。余方もまたしかあるべし。
 須(シュミ)大海を量としてしかあらずと疑殆(ギタイ)し、日月星辰(ニチガツショウシン)に格量して猶滞(ユウタイ)するは少見なり。
 

【現代語訳】
 南嶽は、どうしてこのように説いたのでしょうか。江西は、どのようにこの教えを会得したのでしょうか。
 その道理とは、自分が南へ向かって行く時には、大地も同じように南へ向かって行くということです。他の方角でもまたその通りなのです。
 これを須弥山や大海の分量から、そうではあるまいと疑ったり、太陽や月星を推量して、なお躊躇することは、狭い見方です。
 

《「われ向南行するときは、大地おなじく向南行するなり」と言われると、先に挙げた石井訳の「東西南北は、ただ自己のなかの方角にすぎない」(3節)という解釈がにわかに有意義に思えてきます。
 それは、砕いていえば、『行持』が言っている、南嶽は「修行の途中で中断して帰郷すれば、馬祖は、どうしても『十方県の人』となって」、広く衆生の迷いを救うという仏道の教えから外れてしまうことにもなるのを恐れたのではないか、という理解にもつながっているように思われてきます。
 同書は、この巻の初めに「わが行持すなはち十方の帀地漫天、みなその功徳をかうむる」(「行持 上」巻第二章1節)とあったことを挙げて「この道理がここにもそのまま適用されるのである」と言います。 
 確かに、覚者は宇宙とともにあってほしいのであって、地球上のとある小さな地域を指して、それを故郷と呼んで懐かしがるというのは、ちいせぇちいせぇ、と言わなくてはならないでしょう。
 サルトルとは全く異なった角度からの答えですが、「天上天下唯我独尊」の精神からの発想と考えれば、結果としてはそれほど遠いわけではないようにも思われます。》
 

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3 道一~3

 並舎老婆子は、説汝旧時名なりとはいはざるなり。並舎老婆子、説汝旧時名なりといふ道得なり。
 
【現代語訳】
 南嶽はその理由として、家々の老婆は お前の昔の名前をよぶであろうから、とは言っていないのです。家々の老婆は お前の昔の名前をよぶであろうから、という話をしたのです。
 

《ここの訳は、諸注、各々以下の通りです。
『全訳注』・「隣近所の老婆たち」が、「汝のむかしの名をもって呼ぶであろう」と、そういっておるのではない。そこは、二つの句を一つにして、ずばりと、「並舎老婆子、説汝旧時名」といっておるのである。
『行持』・老婆たちは、…昔の名(道一という、仏道に専一するという意味)を説き明かすだろうとは言わないのである。ただ、南嶽は、「近所の老婆たちは、昔から一貫して、昔の名(道一)を説き明かすだろう」という、仏法の道理を言い得ているのである。(注釈・つまり、お前の帰郷は、老婆子たちの期待を裏切ったことになるが故に、これも「帰郷道不行」という結果になるであろうという見通しを述べたことになると解される。)
『提唱』・隣のおばあさんがおまえの子供の時の名前を呼ぶだろうと「想像して述べられてのではなくて、隣のばあさんというものは、そういうふうな極めて世俗的な形でおまえに対して応対をするだろう」(から、仏道修行とはかけはなれてしまう)…。
 ちなみに「石井」訳・「隣の老婆は、お前の名を喚ぶ」と示しているのではない。「隣の老婆、つまりお前はお前の本来の名を説くほかはない」という法語である。
 こうして並べてみますが、この口語訳の方が原文よりももっと解りにくいような気さえします。
 やむなく、私は、「即心是仏」巻を思い出してもます。あの言葉は、「すなわち心これ仏」という意味ではなく、「即心是仏」という単語がある一つの状態を意味しているのではないかと考えたのでしたが、ここも同様に、二度目の「並舎老婆子、説汝旧時名」を一つの単語だと考えてみてはどうでしょうか。
 「は」が入るのと入らないのとの違いがそこにあります。
 初めの「は」が入っている方は、具体的現実的に隣の老婆から懐かしく昔の名で喚ばれることを意味することになり、「は」が入らない方は、単語としての働きになる、と考えます。
 「並舎老婆子、説汝旧時名」は、現実にそういうことが起こるか起こらないかは問題ではなくて、それはそのまま「帰郷」という意味であり、それはそのまま、行持の厳しさを忘れさせて、人を優しく無条件に包み込んで仏道から遠ざけてしまうもの、という意味の言葉である、と考えるわけです。
 いわば、南嶽は、帰郷という行為を否定しただけではなく、帰郷という言葉の意味することを考えることさえも否定している、ということになります。
 先に、道一は出立する前に師にその申し出をしただろうに、南嶽はその時どうして何も言わなかったのだろうかと疑問を持ちました(1節)が、彼はその段階で、これは我が徒にあらず実はすでに一度道一を見放したから何も言わずに出立させたのであり、道一が帰ってきて「帰郷」を問うたことによって、かろうじて同じ平面に復帰したので、それなら、と教えを説いたのだ、と考えると何かいい感じに思えますが、誤解による独り合点にすぎないと言われるでしょうか。》


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2 道一~2

 いかなるかこれ莫帰郷(マクキキョウ)。莫帰郷とはいかにあるべきぞ。東西南北の帰去来、ただこれ自己の倒起なり。まことに帰郷道不行(ドウフギョウ)なり
 道不行なる、帰郷なりとや行持する、帰郷にあらざるとや行持する。
 帰郷なにによりてか道不行なる。不行にさえらるとやせん、自己にさえらるとやせん。
 

【現代語訳】
 帰郷してはならない、とはどういうことでしょうか。帰郷してはならない、とはどうあるべきなのでしょうか。東西南北の故郷に帰ろうとすること、これはただ自己に背くことなのです。まことに、帰郷すれば仏道は行われない、ということなのです。
 仏道が行われないのは、帰郷が原因と考えるべきか、帰郷とは無関係と考えるべきか。
 帰郷がどうして仏道が行われないことになるのか。それは行わないことに妨げられるのであろうか、それとも自分自身に妨げられるのであろうか。
 

《さて、ここからこの章の終わりまで南嶽の偈に対する禅師の見解が語られますが、初めの二句はここの訳のとおりに考えればいいとして、以下は、よく分からないところです。
 『行持』が「極めて難解・晦渋であって、多くの研究者を悩ませたことは、諸注釈の上に明らかである」と言いますから、妙に手出しをしない方がいいのかも知れませんが、とりあえず同書が「反復熟読を積み重ね」た結果たどり着いたという解釈に従って、少し細切れにして読んでみます。
 「東西南北の帰去来」は、「あらゆる方向に帰ったり、行ったり、来たりすること」(『行持』)で、諸注、共通しています。なぜわざわざ方角をいう必要があるのか不審ですが、『行持』が次の「倒起」について、「たおれることとおきること、自己の行動の全体をいう」と言います(ここの訳とは異なる解釈ですが、手元の諸注はこの解釈です)から、その「全体」ということを強調しているということでしょうか。つまり、どこに行こうとも、「すべて自己の営みである」(『全訳注』)、「自分自身がやっておる動作でしかない」(『提唱』)。
 「まことに帰郷道不行なり」は、そのような「営み」「動作」は、道を行うことにならない、「仏道修行の面がおろそかになる」(『提唱』)、「故郷なつかしさに帰るとすると、自己の仏道が、…、天下に広く実現しないことになるのである。」(『行持』)。
 問題の要点は「帰郷なにによりてか道不行なる」という問題提起に対する答えに当たると思われる「不行にさえらる…」以下です。よく分からないままに、例によって諸注の訳を列挙してみます。
『全訳注』・それは行われないから行われないのであろうか、それとも、自分がそれを碍げているのであろうか。
『行持』・帰郷しても、「道不行」ということになる結果を予想して、それによって「帰郷」が妨げられるのか、…そういう「帰郷」する自己の、内に潜む、郷里への懐かしさ…などの私情によって、「道不行」という結果になることを遮られるからだろうか。
 なお、石井恭二訳『正法眼蔵』(河出書房新社)は「仏道修行は仏道修行にとらわれてはならないと云うのか、自己は自己に妨げられると云うのか」としています(ちょっと後返りですが、「東西南北の帰去来」について、この書は「東西南北は、ただ自己のなかの方角にすぎない、何処に往くのが『帰去来(帰りなんいざ)』であるのか」と独特の解釈をしていて、興味を引かれます)。
 さて、右のいずれにしても、問いへの答えであるはずのところが、これまた疑問文であることからして、困ってしまいます。
 やむなくそこから離れて、勝手に世俗ふうに解釈してみると、前半は、「道不行」は、「帰郷」自体が問題であるのか(帰郷しようという気持ちが、すでに即「道不行」である、とか)、「帰郷」によって生じる別の何か(歓待による心の緩み、など)が問題なのか、というのはどうでしょうか。
 後半は、「帰郷」することによって、寺にあっての行持が行えなくなることが問題なのか、「帰郷」しようという気持ちがすでに行持の妨げになっているという点が問題だとするのか、…。
 で、最後は「並舎老婆子は」以下に結びを求めてみます。


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1 馬祖道一~1

 洪州江西(コウゼイ)開元寺大寂(ダイジャク)禅師、諱(イミナ)道一(ドウイツ)、漢州十方県人なり。南嶽に参侍すること十余載なり。
 あるとき、郷里にかへらんとして、半路にいたる。半路よりかへりて焼香礼拝(ライハイ)するに、南嶽ちなみに偈をつくりて馬祖にたまふにいはく、
「勧君(カンクン)すらく帰郷すること莫れ、
 帰郷は道(ドウ)行われず。
 並舎(ヘイシャ)の老婆子(ロウバス)
 汝が旧時の名を説かん。」
 この法語をたまふに、馬祖うやまひたまはりて、ちかひていはく、「われ生々(ショウジョウ)にも漢州にむかはざらん。」と誓願して、漢州にむかひて一歩をあゆまず。江西に一住(イチジュウ)して、十方を往来せしむ。
 わづかに即心是仏を道得するほかに、さらに一語の為人(イニン)なし。しかありといへども、南嶽の嫡嗣(テキシ)なり、人天(ニンデン)の命脈なり。
 

【現代語訳】
 洪州江西開元寺の大寂禅師(馬祖・バソ)は、名を道一といい、漢州十方県の人です。この師は南嶽懐譲(エジョウ)に仕えて学ぶこと十数年でした。
 ある時、郷里に帰ろうとして途中まで行くと、また引き返して焼香礼拝しました。そこで南嶽は偈を作って馬祖に与えました。
「君に勧める、帰郷してはならない。帰郷すれば仏道は行われない。家々の老婆が、お前の昔の名を呼ぶであろうから。」
 この詩を与えると、馬祖は敬い頂戴して、自ら誓って言いました。「私は今後、何度生まれ変わろうとも、故郷の漢州には向かいません。」と誓い、再び漢州に向かって一歩も歩むことはありませんでした。そして、専ら江西に住して、諸方の修行者が往来したのです。
 馬祖は、ただ即心是仏と説くだけで、他には何も説きませんでした。しかしながら馬祖は、南嶽の仏法の嫡子であり、人間界天上界の命となった人でした。
 

《時代がまた大きく後返りして八世紀の人、馬祖道一のエピソードです。この人はすでに五人目として語られたことのある人(『行持』上巻第八章2節)で、再度の登場ですが、一応三十三人目としておきます。先にはほんの数行の話でしたが、ここはしっかり語られます。
 まず、この節ですが、話の展開は分かりやすいのですが、二つ疑問が残ります。
 一つは、どうして「半路よりかへりて」ということになったのか、…。
 諸注、触れてくれませんが、わずかに『提唱』が「故郷に帰っているのも時間の無駄だ」とか「お寺にいて坐禅の修行をしていたほうがどうも自分に合っている」とか「感じたのかも知れない」と言います。
 そうだとすると、道一は故郷に帰る道中で、帰ることに疑問を抱いて、その答えを求めて師の前に現れたことになります。
 もう一つは、道一は、帰ろうと思ったときに、当然師に許可を求めたでしょうが、師は、後返りをしてきた弟子に「帰郷すること莫れ」と言うくらいなら、どうして初めにそれを言わないで、黙って帰したのか、…。
 この二つの疑問を解く道は、実は師は初めから帰ることに反対だったのだが、自分の方から一方的にそれを止めてしまうのはよくないと考え、かつ、道一が帰る道中で必ずや自分の行動に疑問を抱いて後返りしてくることを確信していて、その疑問を抱いたときに道を示してやるのがよいと考えていたのだ、というストーリーです。それならそうと語ってくれればよさそうなものだと思うのですが、…。
 ともあれ、道一は、修行と故郷へ帰ることの選択を迫られたわけです。
 ところでこの話は、『実存主義とは何か』(仏・サルトル)の中で語られている、よく知られたエピソードとよく似ています。慧能の話(上巻第八章1節)の中でも挙げましたが、それは、一人で母の世話をしていた青年がパルチザンに参加すべきではないかと、選択に迷って、サルトルに自分の道を尋ねたときに、サルトルは「あなたは完全に自由だ」と答えたという話でした。
 さて、…。

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2 臨済~2、黄檗

 師、黄檗(オウバク)に在りしとき、黄檗と与(トモ)に杉松(サンショウ)を栽(ウ)うる次(ツイ)でに、黄檗、師に問うて曰く、「深山の裏(ウチ)に許多(ソコバク)の樹を栽えて作麽(ナニニカセン)。」
 師曰く、「一には山門の与(タメ)に境致(キョウチ)と為し、二には後人の与に標榜と為す。」
 乃(スナハ)ち鍬を将(モッ)て地を拍(ウ)つこと両下(リョウゲ)す。
 黄檗、拄杖(シュジョウ)を拈起(ネンキ)して曰く、「然(シカ)も是(カク)の如くなりと雖も、汝已(スデ)に我が三十棒を喫し了(オワ)れり。」
 師、嘘嘘声(キョキョセイ)をなす。
 黄檗曰く、「吾が宗、汝に到って大いに世に興らん。」
 しかあればすなわち、得道ののちも杉松などをうゑけるに、てづからみづから鍬柄(シュウヘイ)をたづさへけるとしるべし。
 吾宗到汝大興於世、これによるべきものならん。
 栽松道者(サイショウドウシャ)の古蹤(コショウ)、まさに単伝直指(ジキシ)なるべし、黄檗も臨済とともに栽樹するなり。
 黄檗のむかしは、捨衆(シャシュ)して大安精舎(ショウジャ)の労侶(ロウリョ)に混迹(コンセキ)して、殿堂を掃灑(ソウサイ)する行持あり。仏殿を掃灑し、法堂(ハットウ)を掃灑す。心を掃灑すると行持をまたず、ひかりを掃灑すると行持をまたず。
 裴相国(ハイショウコク)と相見(ショウケン)せし、この時節なり。

 

【現代語訳】
 臨済が黄檗禅師の所にいた時、黄檗と共に杉や松を植える作業をしていると、黄檗は臨済に尋ねました。「この山奥にたくさんの木を植えてどうしようというのかね。」
 臨済は答えて、「一つには、この寺のために境内の風光とし、二つには、後世の人のために目印とするのです。」 そう言って鍬で地面を二度打ちました。
 すると黄檗は杖を手に取って言いました。「そう答えても、お前はとっくに私の三十棒を受けてしまったぞ。」
 臨済はハーッと大きく息を吐きました。
 黄檗は言いました。「私の教えは、お前の代で大いに世に興るであろう。」
 このように、臨済は悟りを得た後も、杉や松を植えるのに、わざわざ自分の手で鍬を取ったことを知りなさい。
 黄檗の「私の教えは、お前の代で大いに世に興るであろう。」という言葉も、臨済のこの修行力によるものでしょう。
 臨済は、栽松道者と呼ばれた五祖 大満禅師の行跡を、まさにそのまま伝えているのです。黄檗も臨済と共に木を植えたのです。
 黄檗(希運)禅師は昔、道場の僧衆を捨てて大安寺の労働の仲間にまじり、伽藍を掃き清める行持がありました。仏殿を掃き清め、法堂を掃き清めたのです。それは心を掃き清めるための行持でも、仏の光を掃き清めるための行持でもありませんでした。
 宰相の裴相国と出会ったのも、この頃でした。

 

《ここの二人の一つひとつの言動の意味はよく分かりません。
 初めの臨済の答えは、ごく普通のものですが、そう言って鍬で地を打ったことにはどういう意味があるのか。例えば『提唱』は「わかりましたか」という意味だと言い、『行持』は「この行持を生涯にわたり努め抜くという覚悟の表明」という解釈があると言います。
 次の黄檗の言葉についても、『提唱』は「そんな生ぬるい答えではもうわしは三十回ぐらいおまえをぶんなぐっておる」という意味だとしていますが、『行持』は「臨済が自己(黄檗を指すと思われます)の仏法をすべて学び得たという印可のことを表して」いると言います。
 「嘘嘘声」はその師の言葉を無視する表現とする点で同じ(ちなみに「嘘」は「ゆっくり息を吐き出す」という意)ですが、前を『提唱』のように解すると、それを以て「吾が宗、汝に到って大いに世に興らん。」と言い得たのは、なぜかという疑問が残ります。
 前節で触れたように、禅師の関心は「臨済大悟」よりもこちらのエピソードの方にあったようですが、その意味がよく分からないのが残念です。
 前節の大悟に至る話では「純一」なる言葉が繰り返して使われて、臨済が黄檗と睦州の指導を言われるがままにまっすぐに受け入れている姿が描かれていますし、ここでは「てづからみづから」ということが強調されて、臨済の行持がそういう愚直なものであったことが述べられているように見えます。
 そして最後に「栽松道者の古蹤、まさに単伝直指なるべし」と、師弟の関係の緊密さで結ばれています。
 『行持』は、そういう点を指して、禅師は、行持はかくあるべしと語っているのだと、言っていて、なるほどと思わされます。
 「黄檗のむかしは」以下を『行持』は二十二人目、黄檗の話として、章を改めています(『全訳注』も黄檗を一人としてあげています)。
 ここの初めから黄檗の話としてもよさそうです。『行持』はこれを、「いわゆる得法以後の悟後の行持」であると言っています。得度を目指すのではない、いわば無償の行持とでもいうべき、純粋な行持を行った、ということでしょうか。
 宰相の裴は、黄檗に帰依して、黄檗との問答集を残し、またいくつかの仏書も書いた人だそうです。


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