『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

三十二

3 如浄~3

 あるがいはく、衆生利益(リヤク)のために、貪名(トンミョウ)愛利すといふ、おほきなる邪説なり。附仏法(フブッポウ)の外道なり、謗正法(ボウショウボウ)の魔儻(マトウ)なり。
 なんぢがいふがごとくならば、不貪(フトン)名利の仏祖は利生(リショウ)なきか。わらふべし、わらふべし。又 不貪の利生あり、いかん。又そこばくの利生あることを学せず、利生にあらざるを利生と称する魔類なるべし。
 なんぢに利益せられん衆生は、堕獄の種類なるべし。一生のくらきことをかなしむべし、愚蒙を利生に称することなかれ。
 しかあれば、師号を恩賜すとも上表辞謝する、古来の勝躅(ショウチョク)なり、晩学の参究なるべし。まのあたり先師をみる、これ人にあふなり。
 

【現代語訳】
 ところがある人は、人々を利益するために名利を求めるのだと言っています。それは大いに誤った考えです。そういう人は仏法にくっついている外道であり、正法を謗る天魔の仲間です。
 その者の言う通りなら、名利を貪らない仏祖は人々を利益しないのでしょうか。笑うべきことです。又、仏祖が名利を貪らずに人々に利益を与えてきたことを、どう考えるのでしょうか。その者は、仏祖が人々に多くの利益を与えてきたことを学ばずに、人々の利益にならないことを人々の利益と称する魔のたぐいなのです。
 その者に利益された人々は、地獄に堕ちる部類となるでしょう。その一生の暗いことを悲しまなければいけません。ですから、愚かな考えを人々を利益するために称えてはいけません。
 このように、禅師号大師号などを賜っても、書をしたためて辞退することは、古くからの勝れた行いであり、晩学後進の学ぶべき事です。私は目の当たりこのような我が師を見ましたが、これは、まことの人に会うことが出来たということです。
 

《「衆生利益のために、貪名愛利す」というのは、実にありそうな弁明ですが、それだけにわざわざ取り上げて論評するに及ばないような気もします。
 それは所詮口実にすぎず、それによって得たものの一部は本当に「衆生利益」に使われるにしても、すべてをそこに注ぐ人は極めてまれであろうと思われるからです。
 だから「貪名愛利」を捨てよと、すぐに話が進むのかと思うと、禅師の批判の方向は「不貪名利の仏祖は利生なきか」、「名利」など持たなくても、衆生を利することはできるのだ、と、ちょっと違いました。
 このあたり、禅師は気持ちが高ぶり、ひょっとして苛立ってさえいるようで、「わらふべし」を繰り返すなど、「なんぢ」について誰か具体的な批判者を意識して、その人への憤りをぶちまけているのではないかといった様子が感じられ、理論よりも情が先立っているように思われます。
 こんなふうに言われると、天邪鬼としては、逆に、名利を利用しての「利生」もあってはいいではないか、あり得るのではないか、と言いたくなります。それは、「利生にあらざるを利生と称する」ことになるのだと言われますが、それは認識の違いに過ぎないのではないでしょうか、と口に出かかります。
 しかし、普通に考えて、「利」がしばしばより多くの利を求めることになるように、欲望は常により大きな満足を求めるようにできていて、自らとどまることがないことを思えば、それが求道の妨げになることは、もちろんよく分かります。


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2 如浄~2

 うけざるは行持なり、すつるは行持なり。六代の祖師おのおの師号あるは、みな滅後の勅謚(チョクシ)なり、在世の愛名にあらず。
 しかあれば、すみやかに生死の愛名をすてて、仏祖の行持をねがふべし、貪愛(トンアイ)して禽獣にひとしきことなかれ。
 おもからざる吾我をむさぼり愛するは、禽獣もそのおもひあり、畜生もそのこころあり。名利をすつることは、人天もまれなりとするところ、仏祖いまだすてざるはなし。
 

【現代語訳】
 名利を受け取らないことは仏祖の行いです。名利を捨てることは仏祖の行いです。中国の六代の祖師に、おのおの禅師大師の称号があるのは、皆滅後に賜った追贈であり、名利のために生前に受けたものではありません。
 ですから、速やかに生死輪廻の因である名利を愛する心を捨てて、仏祖の行いを願い求めなさい。名利を貪り愛して禽獣と同様になってはいけません。
 取るに足りない自分を貪り愛することは、禽獣でもその思いがあり、畜生でもその心があるのです。名利を捨てる人は人間界や天上界でも希にしかいませんが、仏祖でそれを捨てなかった人はいないのです。
 

話としては分かり易いのですが、それをここまで語らねばならないということは、事柄としては、それほどに容易ではないということを意味しているわけです。
 いくら言われても、多くの人にはそれができない、そういう問題だということです。
 どうすればそれができるかという手立てもありません。ただそうする、ということしかなく、禅師の言葉を、私たちはただ承るしかないのか、という気がします。
 とすればこの問題は、人間存在に根本的に深く関わる、大変大きく深い問題で、「名利をすつることは、人天もまれなり」ということであってみれば、ひょっとしたら、「仏祖」というのは人間ではなくなるということになるかも知れない、と言えないでしょうか。
 人間ではなく、仏になるのだとしたら、さて、それは「人間」にとってどれほど幸せなことか、と思うと、実はよく分からなくなるという一面がないでしょうか。
 その一方で、「滅後の勅謚」ならいい(あるいは仕方がない)というのもよく分からない話です。ダメなものはどこまで行ってもダメなのではないか、死んでしまっては断りようがないのは、そのとおりですが、それを拒否する生前の手立ても、無くはないでしょうし、もし師号を価値のないものであるとするなら、「滅後の勅謚」も無意味なものなのですから、それを取り上げて、「滅後の勅謚」だからいいのだ、などと断る必要もなく、それをわざわざそう断るのは、それなりの価値を認めていることになるように思われます。
 私は、「捨てる」のではなくて、その欲望の処理の仕方の問題だと思うのですが、そうすると、単なる処世にすぎなくなってしまうのかも知れません。
 この訳の初めのところ、「仏祖の行いです」となっていますが、「うけざる」も「すつる」も、それは「行持」の一環なのである、という意味だと思われます。

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1 天童如浄~1

 先師天童和尚は、越上の人事(ニンジ)なり。十九歳にして、教学をすてて参学するに、七旬におよむでなほ不退なり。
 嘉定の皇帝より紫衣師号(ジゴウ)をたまはるといへども、つゐにうけず、修表(シュヒ)辞謝す。十方の雲衲(ウンノウ)ともに崇重(スウチョウ)す、遠近(オンゴン)の有識(ウシキ)ともに随喜するなり。
 皇帝大悦して御茶(ギョチャ)をたまふ、しれるものは希代の事と讃嘆す。まことにこれ真実の行持なり。
 そのゆゑは、愛名(アイミョウ)は犯禁(ボンキン)よりもあし、犯禁は一時の非なり。愛名は一生の累なり。おろかにしてすてざることなかれ、くらくしてうくることなかれ。
 

【現代語訳】
 先師天童和尚(如浄)は、越州の人です。十九歳で仏教の学問を捨てて禅門に学び、七十歳になっても修行を止めることはありませんでした。
 師は、南宋 嘉定の皇帝(寧宗)から紫衣と禅師の称号を賜りましたが、遂に受け取らず、書をしたためて辞退しました。この師の行いを諸方の修行僧は皆尊重し、諸方の識者も皆随喜しました。
 皇帝も大いに喜んで御茶を賜りました。このように師の行いを知った者は皆、世にも希な事と褒めたたえたのです。まことにこれは真実の修行の姿でした。
 何故ならば、名利を愛することは禁戒を犯すよりも悪いのです。禁戒を犯すことは一時の過ちです。しかし、名利を愛することは一生の煩いであるからです。これを愚かにも捨てないでいてはいけません。この道理に暗いまま名利を受け取ってはいけません。

 

《三十五人目、とうとう最後の人になりました。禅師が、満を持して師・天童如浄を語る、というところです。
 この人について、『行持』によれば、ここからその五つの行持が語られます。
 その第一は「愛名」「愛利」忌避の姿勢です。
 如浄は、皇帝から「紫衣師号」を賜りましたが、受けず、そのことを「十方の雲衲」、「遠近の有識」がこぞって喜び讃えました。古来、時々ある話で、許由が、尭から帝位を譲ろうと言われ、汚れたことを聞いたとして耳を洗ったという故事が最も名高いでしょうか
 しかし、当の皇帝さえも「大悦」したというのは、ちょっと珍しい話で、この書にも、自分が与えようというものを受け取らないと言って怒った皇帝のことが語られていましたが、そちらが普通です。
 いつでしたか、イチロー選手が、三度目の国民栄誉賞授与の話をまたしても断ったという報道がありましたが、贈ろうとした方の気分は、政治的な思惑もあったりして(だからイチロー氏は受けなかったのでしょう)、かなり苦々しいものだったのではなかろうかと思います。
 それをこの皇帝は「大悦」したというのですから、この人の人間の大きさ、懐の深さを感じさせます。如浄にとっては幸運でした。この皇帝もなかなか立派な人であったのでしょう。
 このことを第一に語ったのは、禅師として、師のもっとも素晴らしいところがこの点であると考えたからなのでしょうか。あるいは、もっとも分かり易いところから語ったということなのでしょうか。
 それにしても、愛名は犯禁よりもあし」というのは鋭い言葉です。



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3 拾糞掃衣の法

 諸賢、猶ほ阿練若比丘(アレンニャビク)の、糞掃衣を持するに、糞掃の中の所棄の弊衣、或いは大便に汙(ケガ)れ、或いは小便洟唾(イダ)、及び余の不浄に染汙(ゼンナ)せられたるを見、見已(ミオワ)りて左手に之を執り、右手に舒(ノ)べ張りて、若し大便 小便洟唾及び余の不浄に汙さるる処に非ず、又穿たざる者をば、便ち裂きて之を取るが如し。
 是の如く諸賢、或いは一人有りて、身は不浄行に、口意は浄行ならんに、彼の身の不浄行を念ふこと莫れ、但だ当に彼の口意の浄行を念ふべし。
 若し慧者見て、設し恚悩を生ずとも、応に是の如く除くべし。」
 これ阿練若比丘の、拾糞掃衣の法なり。
 

【現代語訳】
 諸賢よ、それは、閑寂処に住む僧が糞掃衣を持つために、掃き溜めの中に捨てられたぼろの衣服を見て、もし大便や小便、 鼻水や唾、その他の汚物に汚れていたならば、それを左手で取って右手で広げ、大便や小便、 鼻水や唾、その他の汚物で汚れていない所、また破れていない所を裂いて、糞掃衣にする布を取るようなものである。
 このように諸賢よ、仮にある人が、身の行いは不浄で言葉と心の行いは清浄である時に、その人の身の不浄な行いを思ってはなりません。ただその人の、言葉と心の清浄な行いを思いなさい。
 もし智慧ある者が、そのような人を見て怒りの心を起こしたならば、このようにしてそれを除きなさい。」
 これが閑寂処に住む僧の、糞掃衣にするぼろ布を拾い集める方法です。
  

《「阿練若」は「人里離れ、比丘が修行するのに最もよい場所とされる」(『読む』)ところのことで、「阿練若比丘」は立派な修行僧ということでしょう。
 人の「不浄行」に対する「恚悩」は抑えなければならない(前節)のは、その立派な修行僧がぼろ布を見つけると、その酷く汚れたところは避けて、汚れていないところを使って袈裟を作るようなものなのだ、という教えです。
 好くないところは避けて、好いところを見なければならない、糞掃衣はそういうことも教えてくれるのだ、ということのようです。
 もっとも、ここで禅師はそういう教えを説いているのではなく、糞掃を見つけた時の取り扱い方、糞掃衣というものの考え方に重点が置かれているようで、以下、その糞掃衣の話になります。

2 身は浄行に、口意は不浄行

 中阿含経(チュウアゴンキョウ)に曰く、「復た次に諸賢、或いは一人有りて、身は浄行(ジョウギョウ)に、口意(クイ)は不浄行(フジョウギョウ)ならんに、若し慧者(エシャ)見て、設(モ)し恚悩(イノウ)を生ぜば、応当(マサ)に之を除くべし。
 諸賢、或いは一人有りて、身は不浄行に、口意は浄行ならんに、若し慧者見て、設し恚悩を生ぜば、応当に之を除くべし。
 当に云何が除くべき。
 

【現代語訳】
 中阿含経に言うことには、「また諸賢よ、仮にある人が、身の行いは清浄で言葉や心の行いが不浄である時、もし智慧ある者がこの人を見て怒りの心を起こしたならば、この怒りは除かなければならない。
 諸賢よ、仮にある人が、身の行いは不浄で言葉と心の行いが清浄である時、もし智慧ある者がこの人を見て怒りの心を起こしたならば、この怒りは除かなければならない。
 それでは、どのようにして除けばよいか。
 

《ここで突然別の話が飛び出します。「身の行い」と「言葉や心」が一致しない人に向き合った時のこちらのあり方の話です。
 行いは立派だが、言葉や心が仏の心に外れている人、つまり格好だけはつけるが、真実みのない人といったところでしょうか。
 また、言葉や心は立派だが、行動が伴わない人、つまり口先では好いことを言うが、実行しない人、でしょうか。
 そういう人に向き合った時、心ある人は、とりあえず怒りを覚えるだろうが、その時、心ある人は、その怒りを抑えなくてはならないのだと言います。
 引用の冒頭に「復た」とありますが、「中阿含経」では、こういう例が行・口・意をそれぞれ組み合わせて六つ挙げられているそうです(『読む』)。
 さて、どのようにして抑えるのか。何故抑えなければならないのか。そしてそれは袈裟とどういう関係があるのでしょうか、…。

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