それ最第一清浄(ショウジョウ)の衣財(エザイ)は、これ糞掃衣なり。その功徳、あまねく大乗小乗の経律論のなかにあきらかなり。広学咨問すべし。その余の衣財、またかねあきらむべし。
 仏仏祖祖、かならずあきらめ、正伝しましますところなり、余類のおよぶべきにあらず。

 【現代語訳】
 そもそも、最も第一に清浄なころも(袈裟)は、捨てられたぼろ布で作った糞掃衣です。その功徳は、広く大乗や小乗の教えを説いた経・律・論の中に明らかに説かれています。その功徳について広く学び、教えを乞いなさい。その他の衣についても、また合わせて学び明らかにしなさい。
 代々の仏や祖師方は、このことを必ず明らかにして正しく伝えてこられたのです。これは他の門流の及ぶ所ではありません。

《糞掃衣を袈裟の中の最上のものとすることは、すでに幾度か語られてきました(十一章2節、二十六章)。どうも、この巻はこのような繰り返しが多いように思われます。
 「その余の衣財、またかねあきらむべし」は、先の第二十三章に、袈裟には、糞掃だけではなくさまざまな布を使って作ったものがあるということが語られて、獣の皮で作ることもある、という話などもありましたが、特に学ばなければならないような話は語られていなかったと思います。
 「経律論」は「仏の説いた経と、仏の定めた律と、教義を検討した論」(コトバンク)ですが、それによって、様々な袈裟の種類を学び、それらがどういうものであり、それぞれ功徳がどれほどのものであるかということを学べ、ということのようですが、それにしても、ここの話は、「経律論」以外は目新しい話ではなく、どうしてこの一節がここにあるのか、例えば前の「十勝利」とどのように関わる話なのか、よく分かりません。
 そしてそのことは、実は次の節もどうようの思いを抱かされます。》