先師よのつねに普説す、
「われ十九載よりこのかた、あまねく諸方の叢林をふるに、為人師(イニンシ)なし。十九歳よりこのかた、一日一夜も不礙(フグ)蒲団の日夜あらず。
某甲(ソレガシ)未住院よりこのかた、郷人とものがたりせず。光陰をしきによりてなり。掛錫(カシャク)の処在にあり、庵裏寮舎、すべていりてみることなし。いはんや游山(ユザン)翫水に功夫をつゐやさんや。
雲堂公界(クカイ)の坐禅のほか、あるいは閣上、あるいは屏処(ヘイショ)をもとめて、独子(ドクス)ゆきて穏便のところに坐禅す。つねに袖裏(シュウリ)に蒲団をたづさえて、あるいは巌下にも坐禅す。
つねにおもひき、金剛座を坐破せんと。これもとむる所期(ショゴ)なり。臀肉(デンニク)の爛壊(ランエ)するときどきもありき。このときいよいよ坐禅をこのむ。
某甲今年六十五載、老骨頭懶(トウラン)、不会(フエ)坐禅なれども、十方兄弟(ジッポウヒンデイ)をあはれむによりて、住持山門、暁諭方来、為衆(イシュ)伝道なり。諸方長老、那裏(ナリ)に什麽(ソモ)の仏法か有らん、なるゆゑに。」
かくのごとく上堂し、かくのごとく普説するなり。
【現代語訳】
先師如浄和尚は、常に修行僧に説きました。
「私は十九歳から広く諸方の禅道場を経験してきたが、人の師と言うべき人物はいなかった。又、十九歳から今まで、一日一夜たりとも坐禅の蒲団に坐らない日々は無かった。
私は寺院に住持する前から、村人と雑談したことはない。時間が惜しいからである。また道場に居た時には、他の僧の部屋へは、まったく入って見たことがない。まして山水へ遊ぶことに時を費やすことはなかった。
公の僧堂での坐禅の他に、楼閣の上や物陰を求めて、独りで適当な場所に行って坐禅をした。いつも袂には坐禅の蒲団を携えて、ある時は岩の下でも坐禅したものである。
そしていつも、釈尊が金剛座に坐って成道されたように、坐禅の座を坐り破ろうと思っていた。これが私の望みであった。時折 臀の肉がただれることもあったが、その時はますます坐禅を好んだものである。
私は今年六十五歳になり、老いぼれて物憂く、坐禅のことは分からないのだが、道を求める諸方の兄弟たちを哀れに思うので、道場に住持して四方から来る人々を諭し、衆のために仏道を伝授している。諸方の長老たちの所には、まともな仏法が無いからである。」
このように先師は法堂で説法し、このように皆に説きました。
《『行持』が「凄絶、清絶とも称すべき、只管坐禅に過ごした功夫・精進の跡が語られている」…「天童と道元の厳潔とも言うべき意志・態度の表明を見る」と絶賛しています。
確かに清廉で、強い意志が感じられ、まさに孤高の精神と言えますが、前節に書いたように、当然ながら非社会的で、そうした、「身心脱落」した精神は、その当人にとって以外に、どういう意味を持ちうるのか、という、疑問というか、感想を持ちます。
私は、悟りを開くということは、世界観が変わるということだと考えて、ではどのように変わるのか、そういう人に世界はどう見えるのだろうかということを思ってきました。
良寛の晩年は村の子供たちと戯れる日々だったと伝えられているようですが、そこでしか生きられないのだとしたら、悟るとは、一体どういうことなのだろうかと思ってしまいます。
香厳は、竹を打つ小石の音を聞いた後、どういう世界を見たのか、…。
身心脱落した後には何があるのか、と問えば、脱落身心という答えが返ってきそうですが、それはどういう世界観なのか、…。
「某甲未住院よりこのかた、郷人とものがたりせず」は、修行の過程としてやむを得ないとして、では「身心脱落」の後は、どうしたのでしょうか。
もし、仏徒にとって身心脱落は永遠の課題、求め続けるものであるのなら、その時、「郷人」とは何なのだろうか、という疑問が湧きます。》