『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

三十五

如浄~6

先師よのつねに普説す、
「われ十九載よりこのかた、あまねく諸方の叢林をふるに、為人師(イニンシ)なし。十九歳よりこのかた、一日一夜も不礙(フグ)蒲団の日夜あらず。
 某甲(ソレガシ)未住院よりこのかた、郷人とものがたりせず。光陰をしきによりてなり。掛錫(カシャク)の処在にあり、庵裏寮舎、すべていりてみることなし。いはんや游山(ユザン)翫水に功夫をつゐやさんや。
 雲堂公界(クカイ)の坐禅のほか、あるいは閣上、あるいは屏処(ヘイショ)をもとめて、独子(ドクス)ゆきて穏便のところに坐禅す。つねに袖裏(シュウリ)に蒲団をたづさえて、あるいは巌下にも坐禅す。
 つねにおもひき、金剛座を坐破せんと。これもとむる所期(ショゴ)なり。臀肉(デンニク)の爛壊(ランエ)するときどきもありき。このときいよいよ坐禅をこのむ。
 某甲今年六十五載、老骨頭懶(トウラン)、不会(フエ)坐禅なれども、十方兄弟(ジッポウヒンデイ)をあはれむによりて、住持山門、暁諭方来、為衆(イシュ)伝道なり。諸方長老、那裏(ナリ)に什麽(ソモ)の仏法か有らん、なるゆゑに。」
 かくのごとく上堂し、かくのごとく普説するなり。
 

【現代語訳】
 先師如浄和尚は、常に修行僧に説きました。
「私は十九歳から広く諸方の禅道場を経験してきたが、人の師と言うべき人物はいなかった。又、十九歳から今まで、一日一夜たりとも坐禅の蒲団に坐らない日々は無かった。
 私は寺院に住持する前から、村人と雑談したことはない。時間が惜しいからである。また道場に居た時には、他の僧の部屋へは、まったく入って見たことがない。まして山水へ遊ぶことに時を費やすことはなかった。
 公の僧堂での坐禅の他に、楼閣の上や物陰を求めて、独りで適当な場所に行って坐禅をした。いつも袂には坐禅の蒲団を携えて、ある時は岩の下でも坐禅したものである。
 そしていつも、釈尊が金剛座に坐って成道されたように、坐禅の座を坐り破ろうと思っていた。これが私の望みであった。時折 臀の肉がただれることもあったが、その時はますます坐禅を好んだものである。
 私は今年六十五歳になり、老いぼれて物憂く、坐禅のことは分からないのだが、道を求める諸方の兄弟たちを哀れに思うので、道場に住持して四方から来る人々を諭し、衆のために仏道を伝授している。諸方の長老たちの所には、まともな仏法が無いからである。」
 このように先師は法堂で説法し、このように皆に説きました。
 

《『行持』が「凄絶、清絶とも称すべき、只管坐禅に過ごした功夫・精進の跡が語られている」…「天童と道元の厳潔とも言うべき意志・態度の表明を見る」と絶賛しています。
 確かに清廉で、強い意志が感じられ、まさに孤高の精神と言えますが、前節に書いたように、当然ながら非社会的で、そうした、「身心脱落」した精神は、その当人にとって以外に、どういう意味を持ちうるのか、という、疑問というか、感想を持ちます。
 私は、悟りを開くということは、世界観が変わるということだと考えて、ではどのように変わるのか、そういう人に世界はどう見えるのだろうかということを思ってきました。
 良寛の晩年は村の子供たちと戯れる日々だったと伝えられているようですが、そこでしか生きられないのだとしたら、悟るとは、一体どういうことなのだろうかと思ってしまいます。
 香厳は、竹を打つ小石の音を聞いた後、どういう世界を見たのか、…。
 身心脱落した後には何があるのか、と問えば、脱落身心という答えが返ってきそうですが、それはどういう世界観なのか、…。
 「某甲未住院よりこのかた、郷人とものがたりせず」は、修行の過程としてやむを得ないとして、では「身心脱落」の後は、どうしたのでしょうか。
 もし、仏徒にとって身心脱落は永遠の課題、求め続けるものであるのなら、その時、「郷人」とは何なのだろうか、という疑問が湧きます。


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雪峰~2

 いま有道(ウドウ)の宗匠(ショウショウ)の会(エ)をのぞむに、真実請参(シンサン)せんとするとき、そのたよりもとも難辨なり。ただ二十三十箇の皮袋にあらず、百千人の面々なり。おのおの実帰をもとむ。
 授手の日くれなんとす、打舂(タショウ)の夜あけなんとす、あるいは師の普説するときは、わが耳目なくして、いたづらに見聞(ケンモン)をへだつ。耳目そなはるときは、師またときをはりぬ。耆宿(ギシュク)尊年の老古錐、すでに拊掌笑呵呵のとき、新戒晩進のおのれとしては、むしろのすゑと接するたより、なほまれなるがごとし。堂奥にいるといらざると、師決をきくときかざるとあり。
 光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし、師はあれども、われ参不得なるうらみあり。参ぜんとするに、師不得なるかなしみあり。かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり。大善知識、かならず人をしる徳あれども、耕道功夫(クフウ)のとき、あくまで親近(シンゴン)する良縁まれなるものなり。
 雪峰のむかし、洞山にのぼれりけんにも、投子にのぼれりけんにも、さだめてこの事煩(ジハン)をしのびけん。この行持の法操あはれむべし。参学せざらんはかなしむべし。
 

正法眼蔵 行持 上 仁治 癸卯(ミズノトウ)正月十八日 書写了。
                        同三月八日 校点了。    懐弉
 

【現代語訳】
 現在仏道を実践している宗師の道場を眺めると、真実に師の法を学ぼうとする時には、その学ぶよい機会を得ること自体が最も難しいのです。何故なら、学ぶ者はただの二十人三十人ばかりではなく、百人千人もの人々なのです。その各々が真実の法を求めているのです。
 そのために、師がそれぞれに手を授けようとすれば日が暮れてしまい、磨き上げようとすれば夜が明けてしまうのです。或いは又、師が説法する時には、それを理解する自分の耳目が無くて、徒に聞き逃してしまい、耳目が具わった時には、師は既に説き終わっているのです。また、修行を積んだ先輩の老僧が手を打って談笑している時には、初心後輩の自分としては、法座の末席に連なるよい機会さえ希なのです。このように、法の堂奥に入る者と入らない者と、師の秘訣を聞く者と聞かない者とがあるのです。
 月日がたつのは矢よりも速く、身命は露よりも消え易いものです。それなのに、師はあっても自ら学ぶことが出来ないと恨むことがあり、学ぼうとしても師がいないと悲しむことがあるのです。このような事を私は目の当たり見聞きしてきました。優れた師は、必ず人のことを知る力を持っていますが、修行精進する時には、満足するまで親しく近付く良縁は少ないものです。
 雪峰が昔、洞山を訪ねた時にも、また投子を訪ねた時にも、きっとこの事の煩わしさを耐え忍んだことでしょう。雪峰のこの行持求法の節操は感嘆すべきものです。これを学ばないことは悲しいことです。
 

正法眼蔵 行持 上 仁治四年癸卯(西暦1243年)一月十八日 書写し終わる。
                        同年三月八日 校正点検し終わる。 懐弉
 

《ここは学ぼうとする人が、師の指導を受けることのできる機会が、大変に得がたいことを案じている一章で、雪峰はそういう苦労にもめげず、修行に努めたという趣旨であろうと思われます。
 それはまた禅師自身の経験でもあったようで、『行持』は、冒頭の「いま」について、後に「かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり」とあることを挙げて、「宋国における諸師家の会下の意であって、日本国のそれではない」と言います。
 しかし、そのように限定する必要もないのではないでしょうか。
 一読、そういう学僧に対する同情は明らかですし、また「授手の日くれなんとす」には当時の禅師が師の側として感じている難しさも語られているような気がします。
 この巻が書き終えられたのは『全訳注』によれば一二四二年であり、それは、前年に達磨宗の懐鑑、義介・義演・義準などが門下に入るなど、禅師の元に多くの人が集まってきたころにあたるようです。
 ここは雪峰のことを語りながら、禅師が、自分の宋国の頃を思い出し、また現在の自分の周りの弟子のことを案じ、あわせて現在の自分のもどかしさを語っている、と考える方がいいように思われますが、どうでしょうか。
 しかし、そういう中にあっても、学ぶ側は、雪峰のごとく純一に学ぼうとしなければならない、と厳しく求める所が禅師であるわけです。》


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合掌恭敬


  予、在宋のそのかみ、長連牀(チョウレンジョウ)に功夫(クフウ)せしとき、斉肩の隣単をみるに、開静(カイショウ)のときごとに、袈裟をささげて頂上に安じ、合掌恭敬(クギョウ)し、一偈を黙誦(モクジュ)す。
 その偈にいはく、「大哉解脱服、無相福田衣、被奉如来教、広度諸衆生。」
 ときに予、未曾見のおもひを生じ、歓喜みにあまり、感涙ひそかにおちて衣襟(エキン)をひたす。
 その旨趣は、そのかみ阿含経を披閲せしとき、頂戴袈裟の文(モン)をみるといへども、その儀則をいまだあきらめず。
 いままのあたりみる、歓喜随喜し、ひそかにおもはく、
「あはれむべし、郷土にありしとき、をしふる師匠なし、すすむる善友あらず。いくばくかいたづらにすぐる光陰ををしまざる。かなしまざらめやは。
 いまの見(ケンモン)するところ、宿善よろこぶべし。もしいたづらに郷間にあらば、いかでかまさしく仏衣を相承著用せる僧宝(ソウボウ)に隣肩することをえん。悲喜ひとかたならず、感涙千万行。」
 

【現代語訳】
  私が宋国にいたその頃、道場の僧堂で修行している時に、私と肩を並べていた隣の僧が、坐禅の終わる度に袈裟を捧げて頭上に載せ、合掌し敬って一つの偈文を黙唱しているのを見ました。
 その偈文とは、「大いなるかな解脱の服よ、一切の執着を離れた衣、福を与える田の衣よ、この如来の教えを身に着けたてまつりて、すべての人々を悟りの世界へ渡そう。」でした。
 その時に私は、初めてそれを見ることが出来たという思いで、歓喜のあまり感激の涙が人知れず落ちて衣のえりを濡らしました。
 その訳は、昔 阿含経を読んだ時に、袈裟を頭上に押し頂く文を見たのですが、その作法が分かりませんでした。
 今それを目の前で見て、歓喜して密かに思ったのです。「悲しいことに、私が郷土にいた時には、袈裟の作法を教えてくれる師匠はいないし、袈裟を勧める善友もいなかった。そのために、どれほど多くの時を無駄に過ごしてしまったことか。それが残念であり悲しく思う。
 それを今知ることが出来たのは、きっと前世の善根のお蔭であろう。喜ばしいことである。もし無駄に郷土に留まっていれば、このように、正しく袈裟を受け継いで着用する僧と、隣に肩を並べることは無かったであろう。この感激は並ではなく、涙が止めどなく流れるばかりだ。」と。

 

《「袈裟をささげて頂上に安じ、合掌恭敬し」は、読むだけではなんでもないところですが、『読む』が、その姿を写真にして載せているのを見ると、本当に畳んだ袈裟を菅笠のように頭に載せて(それはあたかも温泉につかって畳んだタオルを頭に載せた形に酷似しています)合掌している姿で、失礼ながらかなり滑稽に見えます。普通なら捧げ持って礼拝する、といったくらいではないでしょうか。
 語られているのは、おそらく禅師が初めて天童山の長連牀(坐禅堂)で坐った時のことでしょうが、初めて見て、笑わないで、即座に「歓喜みにあまり、感涙ひそかにおち」たというのは、実は、そういう作法が、阿含経に書かれてあるようで、それを以前読んで、知っていたからでした。
 それを今、目の当たりにしての感激だったのです。何事によらず、古くから伝えられてきたことが大まじめにそのままの形で行われている時、いくらか滑稽感を伴う、というのはよくあることです。しかし、その形の意味を承知している人にとっては、その形のままに行われていること自体がすばらしいことに思え、その姿が美しく思えるというのも、理解できることです。
 相撲の塵手水を切ったり、四股を踏むのも、また、歌舞伎で見得を切るのも、何も知らずにいきなり見たら、何を大袈裟な、と思ってしまうでしょう。野球のユニフォームを、なんとおかしな服を考えたものだ、と言った友人がいます。
 日本では見ることがなかったらしいその所作を見た禅師は、伝統の重さを感じて、袈裟の精神への恭敬の思いを新たにし、すっかり感銘を受けたのでした。》

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