『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

三十六

2 如浄~8

先師曰く、「提挙の台命且つ厳なり、敢へて遜謝せず。只し道理有り、某甲、陞座(シンゾ)説法す、提挙聰(アキラ)かに聴得すや否や。」
 提挙曰く、「下官只聴いて歓喜す。」
 先師いはく、「提挙聡明にして山語を照鑑す、皇恐に勝(タ)へず。更に望むらくは台臨、鈞候万福。
 山僧陞座の時、甚麽(ジンモ)の法をか説得する、試みに道(イ)へ看(ミ)ん。若(モ)し道ひ得ば、銀子一万鋌を拝領せん。若し道ひ得ずんば、便ち府使銀子を収めよ。」
 提挙、起(タ)って先師に向って云く、「即辰伏して惟(オモン)みれば和尚、法候動止万福。」
 先師いはく、「這箇(シャコ)は是れ挙(コ)し来る底(テイ)、那箇(ナコ)か是れ聴得底なる。」
 提挙擬議す。

 

【現代語訳】
 先師は答えました、「長官のお言葉はまことに厳しく、とてもお断り出来るものではございませんが、しかし、私にも訳がございます。私は先ほど高座で説法しましたが、長官は、それをはっきりとお聞き取りいただけましたでしょうか。」
 長官は言いました、「私は、ただただお話をお聞きしまして、喜びで一杯でございます。」
 先師は言いました。「長官はご聡明であり、私の言葉をお聞き下されましたことは、まことに恐れ多いことでございます。更に願う所は、ご来臨万福ならんことを。
 それでは、私が説法した時に、どのような法を説いたのか、試しに言ってみてください。もし言うことが出来れば、銀貨一万鋌を頂きましょう。もし言うことが出来なければ、長官はどうぞ銀貨をお収め下さい。」
 長官は、立ち上がって先師に答えました。「ただいま和尚様におかれましては、ご機嫌万福に存じ上げます。」
 先師は言いました、「それは私が先ほど申し上げたことです。どのように説法をお聞きになられましたか。」
 長官はためらいました。

 

《如浄はそうはしませんでした。そして、あなたは、さっきの私の説法をどんなふうに聞きましたか、と尋ねます。趙は、大変ありがたく聴いたと答えます。
 如浄は、それはなにより結構なことだったが、私が何をお話ししたのか、言ってみてほしい、もし言えたら布施をお受けしよう、言えなければ布施はお納め下さい、と重ねて訊ねます。口頭試問のようで、いささか失礼な話だという気がしますが、そういう意味のようです。
 次の趙の答えは、ここでは「ご機嫌万福」と訳していますが、『行持』によれば、「法候」の「候」は様子、「法」は僧に対する尊称であり、「動止」は動作として、如浄の挙措動作が立派だったと答えた、ということのようです。
 そこで如浄は、「それは私が先ほど申し上げたこと」だと言って(「挙し来る」を諸注はそう訳しています。「万福」という言葉のことを言っているのでしょうか。私は「行う」の意味にとって、「それは私の様子のことです」と考える方がいいような気がするのですが)、そうではなく、説法の中身をどう聴いたのかと訊ねているのだ、と問います。
 それが解ったなら、私が布施を受け取らないということが分かったはずなのだ、という気持ちでしょうか。
 残念ながら、趙には、その問いに答えるだけの力が無かったのでした。
 『行持』は、「仏法に深く参入していない提挙には、自信のある答えができるはずがない。…うろたえる外はなかったのである」と厳しく言います。しかし、一般人はその程度のものだと考えるべきで、「人を見て法を説け」ではありませんが、説法した側にも責任がありそうで、そこを分からせる、あるいは分かる範囲の説法にするという配慮が必要だったようにも思われます。
 布施を断ることは、それなりに意義のあることだと思われますが、善意の相手を傷つけかねない言葉で斥けたのでは、功罪半ばする、というの言い過ぎでしょうか。もちろん、趙にも、呼ぶ人を誤ったということはあります。
 ひょっとして、禅師は、この趙を、財を誇る見苦しい男として語っているのでしょうか。


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1 如浄~7

 又、諸方の雲水の人事(ニンジ)の産をうけず。
 趙提挙(チョウテイコ)は、嘉定聖主の胤孫(インソン)なり。知明州軍州事、管内(カンダイ)勧農使なり。先師を請して、州府につきて陞座(シンゾ)せしむるに、銀子(ギンス)一万鋌(ジョウ)を布施す。
 先師、陞座了に、提挙にむかふて謝していはく、「某甲(ソレガシ)例に依って出山して陞座す。正法眼蔵涅槃妙心を開演し、謹んで以て先公の冥府に薦福す。
 但し是の銀子、敢へて拝領せじ。僧家(ソウケ)、這般(シャハン)の物子(モッス)を要せず。千万賜恩、旧に依って拝還せん。」
 提挙いはく、「和尚、下官(アカン)忝く皇帝陛下の親族なるを以て、到る処に且つ貴なり、宝貝(ホウバイ)見ること多し。
 今 先父の冥福の日を以て、冥府に資せんと欲(オモ)ふ。和尚如何(イカガ)納めたまはざる。今日多幸、大慈(ダイズ)大悲をもて、少襯(ショウシン)を卒留すべし。」
 

【現代語訳】
 また、各地からやってきた行脚僧の手土産などは受け取りませんでした。
 趙長官は、宋の嘉定の皇帝(寧宗)の子孫です。明州の軍と州を治める地方長官であり、州内の農事を司る長官でもあります。長官は、先師如浄和尚を州の庁舎に招き、説法をお願いして、銀貨一万鋌を布施しました。
 先師は、説法が終わってから長官に感謝して言いました。「私は慣例に従って山門を出て説法にお伺いし、正法眼蔵涅槃妙心を説いて、謹んで亡き御尊父の冥福をお祈り致しました。
 しかしこの銀貨は、どうしても頂く訳にはまいりません。僧侶は、このような物を必要としないからです。この有り余るお志は、これまでのように謹んでお返し致します。」
 長官は言いました、「和尚様、この私は忝いことに皇帝陛下の親族なので、何処へ行きましても貴ばれて、財宝を頂くことが多いのです。
 今日は亡き父の冥福を祈る日なので、冥府の父を助けてあげたいのです。和尚様は何故お納め下さらないのでしょうか。今日は本当に幸せでございます。どうかお慈悲を以て、この少しばかりの施しをお納めください。」
 

《とりあえずは、奇特な善意の信者と清廉な僧侶の、気持ちのよい対話です。
 「陞座」は「請いを受けて、説法のために高座に陞る(のぼる)こと」(『行持』)だそうです。ここは、趙提挙が父の法要を営んで、如浄を招き、説法を聞き、銀一万鋌(その額がどれほどのものか解りませんが、大変なものであろうと想像されます)を布施として差し出した、という話のようです。
 清廉な如浄は、こういう話の型どおりと言っては変ですが、丁重にそれを辞退します。
 もちろん、趙はああそうですかと引っ込めたりはしません。自分にとってこの銀子はさほど大きな額ではなく、ささやかな気持ちにすぎないので、父の供養のためにぜひこの布施を受けていただきたい、という懇請は、慇懃であり説得力があります。
 こんなふうに言われれば、布施は六波羅蜜の第一に挙げられていることでもあり、現実的には、一度出したものを引っ込めるのは難しいものであることを慮ったりして、ここは「衆生利益のために」(第一章3節)と受け取っても、そんなに不思議はないところですが、…。》


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2 

 大宋嘉定十七年癸未(ミズノトミ)十月中に、高麗僧二人ありて、慶元府にきたれり。一人は智玄となづけ、一人は景雲といふ。
 この二人、しきりに仏経の義を談ずといへども、さらに文学士(モンガクシ)なり。しかあれども、袈裟なし、鉢盂(ハツウ)なし、俗人(ゾクニン)のごとし。
 あはれむべし、比丘形(ビクギョウ)なりといへども、比丘法なし。小国辺地のしかあらしむるならん。日本国の比丘形のともがら、他国にゆかんとき、またかの智玄等にひとしからん。
 釈迦牟尼仏、十二年中頂戴してさしおきましまさざりき。すでに遠孫(オンソン)なり、これを学すべし。いたづらに名利のために、天を拝し神を拝し、王を拝し臣を拝する頂門をめぐらして、仏衣頂戴に回向(エコウ)せん、よろこぶべきなり。
 

ときに仁治元年 庚子(カノエネ)開冬日、在観音導利興聖宝林寺示衆。
 建長七年 乙卯(キノトウ)夏安居(ゲアンゴ)日、令義演書記書写畢。同七月初五日一校了、以御草案為本。
 建治元年 丙子(ヒノエネ)五月二十五日、書写了。
 

【現代語訳】
 大宋国の嘉定十七年十月に、高麗(朝鮮)の僧二人が慶元府にやって来ました。一人は智玄という名で、もう一人は景雲といいました。
 この二人は、しきりに仏や経の道理を論じていましたが、それは経文を学ぶ僧でした。しかし、僧の護持すべき袈裟が無く、鉢盂(食事に使う鉢)が無いことは、俗人と変わらなかったのです。
 哀れなことに、彼らは僧形であっても、僧としての基本を身に着けていなかったのです。きっと遠方の小国辺地の僧だからでしょう。日本国の僧形の仲間も、他国へ行けば、又この智玄等と同様なのでしょう。
 釈尊は、苦行の十二年間、仏袈裟を頭上に押し頂いて大切にされました。既に我々は釈尊の遠孫なのですから、これに学びなさい。我々は、徒らに名利のために天を拝し、神を拝し、王を拝し、臣を拝する考えを改めて、仏袈裟を頭上に押し頂くことに心を向けることを、喜ぶべきなのです。
 

時に仁治元年、冬の初めの日、観音導利興聖宝林寺で衆僧に説示する。
 建長七年、夏安居の日、義演書記に書写させ終わる。同年七月五日、一度校正し終わり、御草案を本にする。
 建治元年五月二十五日、書写し終わる。
 

《巻の最後を戒めで結びます。正伝の袈裟の尊さを語り、袈裟の本来の体色量を語り、袈裟を掛けることの功徳を語り、修行のあるべき姿を語り来たって、最後に、しかしお前たちはいまそのままそのような仏法の高みにいるのだと思ってはならない、あくまで「袈裟」をつけ、「鉢」を持って初めて僧であるのだと、いわば釘を刺します。
 居並ぶ僧たちは急に我が身のほどを突きつけられて、先ほどまで格調高い話と同じ高みにいるような気がしていたところから、一挙に身の回りの現実に引き戻されて、目指すところの遠さに居住まいを正す、といったところでしょうか。
 

次は「仏性」巻を読んでみます。》

1 袈裟正伝の功徳

 1 ときにひそかに発願(ホツガン)す、「いかにしてかわれ不肖なりといふとも、仏法の嫡嗣(テキシ)となり、正法を正伝して、郷土の衆生をあはれむに、仏祖正伝の衣法を見聞せしめん。」
 かのときの発願いまむなしからず、袈裟を受持せる在家出家の菩薩おほし、歓喜するところなり。
 受持袈裟のともがら、かならず日夜に頂戴すべし、殊勝最勝の功徳なるべし。
 一句一偈の見聞は、若樹若石(ニャクジュニャクセキ)の見聞、あまねく九道(キュウドウ)にかぎらざるべし。袈裟正伝の功徳、わづかに一日一夜なりとも、最勝最上なるべし。
  

【現代語訳】
 そして、その時 密かに発願しました。「私は愚かな人間ではあるが、仏法の嫡子となって正法を伝え、郷土の人々を哀れんで、皆に仏や祖師が正しく伝えて来た袈裟や法のことを教えてあげよう。」と。
 その時の発願は、今無駄ではありません。今では袈裟を護持する在家や出家の菩薩(修行者)が多くいて、私の大きな喜びとなっているからです。
 ですから、袈裟を護持する者たちは、必ず日夜に袈裟を頭上に押し頂いて敬いなさい。袈裟を護持することは最上の優れた功徳なのです。
 ほんの少しの経を聞くとは、樹木や石の経を聞くことであって、それは広く人間の好む世界に限るものではないのです。このように、袈裟を正しく伝え護持する功徳は、それがたった一日一夜であったとしても、最も優れた最上のものなのです。(この訳不確実)
  

《訳の末尾の「この訳不確実」はサイトにあるもので、難渋されたようですが、確かに終わりの一段落が分かりにくく思われます。
 「若樹若石」は、「若しくは樹、若しくは石」(『提唱』)で、その昔雪山童子(釈尊の前身と言われる)が鬼から「諸行無常 是生滅法」という言葉を聞いて、その続きの語句を身を賭して尋ね聞いて、その時鬼が教えてくれた詩句(生滅滅已 寂滅為楽)を樹や石に書き残した(誰でも目にすることができるように、という意図でしょうか)という逸話を指す言葉だそうです。
 次の「九道」は「この三界・五趣のなかにあって、生けるものの住むところは九処であるという。われらの住む世界というほどの意」(『全訳注』)だそうで、その二つのことをつなげると、わずかな教えを受けることはたいへんなことではあるが、われわれの生きる世界だけではなく、どこででも起こることである、というようになりそうです。
 それに対して、袈裟の正伝を受けるということは、「どこにも滅多にあることではない。されば、袈裟を受持することわずか一日一夜なりとも、なおその功徳は最高のものである」(『全訳注』)ということになるようです。》 

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