『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

行持 上

雪峰~2

 いま有道(ウドウ)の宗匠(ショウショウ)の会(エ)をのぞむに、真実請参(シンサン)せんとするとき、そのたよりもとも難辨なり。ただ二十三十箇の皮袋にあらず、百千人の面々なり。おのおの実帰をもとむ。
 授手の日くれなんとす、打舂(タショウ)の夜あけなんとす、あるいは師の普説するときは、わが耳目なくして、いたづらに見聞(ケンモン)をへだつ。耳目そなはるときは、師またときをはりぬ。耆宿(ギシュク)尊年の老古錐、すでに拊掌笑呵呵のとき、新戒晩進のおのれとしては、むしろのすゑと接するたより、なほまれなるがごとし。堂奥にいるといらざると、師決をきくときかざるとあり。
 光陰は矢よりもすみやかなり、身命は露よりももろし、師はあれども、われ参不得なるうらみあり。参ぜんとするに、師不得なるかなしみあり。かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり。大善知識、かならず人をしる徳あれども、耕道功夫(クフウ)のとき、あくまで親近(シンゴン)する良縁まれなるものなり。
 雪峰のむかし、洞山にのぼれりけんにも、投子にのぼれりけんにも、さだめてこの事煩(ジハン)をしのびけん。この行持の法操あはれむべし。参学せざらんはかなしむべし。
 

正法眼蔵 行持 上 仁治 癸卯(ミズノトウ)正月十八日 書写了。
                        同三月八日 校点了。    懐弉
 

【現代語訳】
 現在仏道を実践している宗師の道場を眺めると、真実に師の法を学ぼうとする時には、その学ぶよい機会を得ること自体が最も難しいのです。何故なら、学ぶ者はただの二十人三十人ばかりではなく、百人千人もの人々なのです。その各々が真実の法を求めているのです。
 そのために、師がそれぞれに手を授けようとすれば日が暮れてしまい、磨き上げようとすれば夜が明けてしまうのです。或いは又、師が説法する時には、それを理解する自分の耳目が無くて、徒に聞き逃してしまい、耳目が具わった時には、師は既に説き終わっているのです。また、修行を積んだ先輩の老僧が手を打って談笑している時には、初心後輩の自分としては、法座の末席に連なるよい機会さえ希なのです。このように、法の堂奥に入る者と入らない者と、師の秘訣を聞く者と聞かない者とがあるのです。
 月日がたつのは矢よりも速く、身命は露よりも消え易いものです。それなのに、師はあっても自ら学ぶことが出来ないと恨むことがあり、学ぼうとしても師がいないと悲しむことがあるのです。このような事を私は目の当たり見聞きしてきました。優れた師は、必ず人のことを知る力を持っていますが、修行精進する時には、満足するまで親しく近付く良縁は少ないものです。
 雪峰が昔、洞山を訪ねた時にも、また投子を訪ねた時にも、きっとこの事の煩わしさを耐え忍んだことでしょう。雪峰のこの行持求法の節操は感嘆すべきものです。これを学ばないことは悲しいことです。
 

正法眼蔵 行持 上 仁治四年癸卯(西暦1243年)一月十八日 書写し終わる。
                        同年三月八日 校正点検し終わる。 懐弉
 

《ここは学ぼうとする人が、師の指導を受けることのできる機会が、大変に得がたいことを案じている一章で、雪峰はそういう苦労にもめげず、修行に努めたという趣旨であろうと思われます。
 それはまた禅師自身の経験でもあったようで、『行持』は、冒頭の「いま」について、後に「かくのごとくの事、まのあたり見聞せしなり」とあることを挙げて、「宋国における諸師家の会下の意であって、日本国のそれではない」と言います。
 しかし、そのように限定する必要もないのではないでしょうか。
 一読、そういう学僧に対する同情は明らかですし、また「授手の日くれなんとす」には当時の禅師が師の側として感じている難しさも語られているような気がします。
 この巻が書き終えられたのは『全訳注』によれば一二四二年であり、それは、前年に達磨宗の懐鑑、義介・義演・義準などが門下に入るなど、禅師の元に多くの人が集まってきたころにあたるようです。
 ここは雪峰のことを語りながら、禅師が、自分の宋国の頃を思い出し、また現在の自分の周りの弟子のことを案じ、あわせて現在の自分のもどかしさを語っている、と考える方がいいように思われますが、どうでしょうか。
 しかし、そういう中にあっても、学ぶ側は、雪峰のごとく純一に学ぼうとしなければならない、と厳しく求める所が禅師であるわけです。》


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雪峰義存

 雪峰真覚(シンガク)大師義存和尚、かつて発心(ホッシン)よりこのかた、掛錫(カシャク)の叢林および行程の接待、みちはるかなりといへども、ところをきらはず、日夜の坐禅おこたることなし。雪峰草創の露堂々(ロドウドウ)にいたるまで、おこたらずして坐禅と同死す。
 咨参(シサン)のそのかみは、九上洞山(キュウジョウトウザン)、三到投子(トウス)する、希世の辨道なり。行持の清厳をすすむるには、いまの人、おほく雪峰高行(コウギョウ)といふ。
 雪峰の昏昧(コンマイ)は諸人とひとしといへども、雪峰の伶俐は諸人のおよぶところにあらず。これ行持のしかあるなり。いまの道人(ドウニン)、かならず雪峰の澡雪をまなぶべし。
 しづかに雪峰の諸方に参学せし筋力(キンリキ)をかへりみれば、まことに宿有(シュクウ)霊骨の功徳なるべし。
 

【現代語訳】
 雪峰山の真覚大師義存和尚は、昔、発心して以来、入門の道場や旅先で炊事係を務めて、遥か遠くまで行脚しましたが、どこであろうと日夜の坐禅を怠ることはありませんでした。雪峰山に道場を開いて真の面目を発揮するに至るまで、怠ることなく坐禅と生死を共にしたのです。
 雪峰が教えを学んでいた当時、九度、洞山に上り、三度、投子を訪れて教えを乞うたことは、希世の精進でした。修行の清潔で厳格なことを勧めるのに、今の人の多くが、雪峰は立派な修行者であると言って推薦します。
 雪峰の愚かなところは世の人々と同じであっても、雪峰の怜悧なところは世の人々の及ぶ所ではありません。これは雪峰の修行が優れているからです。ですから、今、仏道を学んでいる人は、必ず雪峰の修行を学びなさい。
 静かに雪峰が諸方に学んだ体力を顧みると、それは実に生得の優れた精神力の功徳によるものと思われます。
 

《前の第三十一章からいきなり三十四章になりましたが、お断りしたように、宣宗の話が三章に渡っていたのを、区切り方が分かりにくく、読む都合上、一章にまとめたからです。
 さて、二十四人目、上巻最後の人は雪峰義存、先に出てきた大慈寰中、洞山悟本(第二十四章)に教えを受けた人で、前章の宣宗とほぼ同世代の人です。
 「雪峰草創の露堂々にいたるまで」が分かりにくいのですが、「露堂々」は、圜悟克勤(エンゴコクゴン)という人の『圜悟語録』にある「明歴々露堂々」が出典のようで、意味は「堂々と現れること」、すると、おおよそここの訳のようになります。(『提唱』はこれを、この義存が残した言葉で、「われわれの住んでおる世界」のことを言うのだとして、縷々語っていますが、ちょっと話に無理があるような気がします)。
 次の「洞山」、「投子」は山の名前で、それぞれ良价、大同という和尚がいたところ、「九山」・「三到」は、「三登九至」などという成語になっているようで(『行持』)、それは「求法の激烈さ」を表しており、禅師は、その時のこの人の修行の様を称揚しているのだと、『行持』は言います。
 「雪峰の昏昧は諸人とひとしといへども、雪峰の伶俐は諸人のおよぶところにあらず」というのが、当たり前のことではありますが、何ともいい言葉です。人にある卓越した点があると、すべてをそこに収斂し、またはそこから、その人の人間性のすべてを称揚したくなりますが、「昏昧は諸人とひとし」と言われると、急にこの人が人間味を帯びて感じられます。
 もっとも私などはすぐに、その「昏昧」はどのようなものだったのだろうかと、関心が横道にそれてしまいそうですが、それは俗人の性としてご容赦を願うことにします

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4 宣宗~4

 武宗ののち、書記つひに還俗(ゲンゾク)して即位す。武宗の廃仏法を廃して、宣宗すなはち仏法を中興す。
 宣宗は即位在位のあひだ、つねに坐禅をこのむ。未即位のとき、父王のくにをはなれて、遠地の渓澗(ケイカン)に遊方(ユホウ)せしとき、純一に辨道す。即位ののち、昼夜に坐禅すといふ。
 まことに、父王すでに崩御す、兄帝また晏駕(アンガ)す、をひのために打殺(タセツ)せらる、あはれむべき窮子(グウジ)なるがごとし。しかあれども、励志うつらず辨道功夫す。奇代の勝躅(ショウチョク)なり、天真の行持なるべし。
 

【現代語訳】
 武宗が亡くなった後、書記の宣宗は遂に還俗して即位し、武宗の行った仏法廃止を止めて、再び仏法を盛んにしました。
 そして宣宗は即位してから在位の間、常に坐禅を好みました。宣宗は即位していない時代に、父王の国を離れて遠方の渓流を遊行した時に、純一に精進したのです。即位の後は、昼夜に坐禅したといいます。
 まことに宣宗の半生は、父王は既に亡くなり、跡を継ぐ兄もまた亡くなり、甥のために打ち殺されて、遠方にさまよい窮している哀れな長者の息子のようでした。しかし、仏道に励む志は変わらず修行精進したのです。これは希代の優れた足跡であり、真実の行持というべきです。
 

《武宗は三十三歳で若くして亡くなったようです。宣宗は四歳しか年長ではありませんでしたから、まだ十分に後継できる年齢だったのでした。
 武宗は仏教弾圧をしたのですが、それは彼が道教を信じたからで、サイト「世界の窓」は次の な話を伝えています。
「排仏の裏にはつねに道教派の策動があり、道士が天子に取り入る手段は、常に不老不死の強壮薬を進めることであった。しかるにこの強壮薬ははなはだ危険な代物で、これまで何人の帝王がそのために精神錯乱におちいったり、死期を早めたりしたか知れなかった」。
 こうしたことでは一般の信望は得られなかったのでしょうか、武宗の後にその反対勢力とも言える宣宗が即位することになりました。
 最初に「少而より…つねに坐禅す」とありましたが、その後ずっとそうであったようです。『行持』は「この即位後の坐禅こそ、特に実行しがたいことであったと思われる」と言います。
 『行持』は、「大唐国の皇帝として、生涯を一貫して、求道に生きた、大心根の人としての宣宗こそ、行持に徹した、希有の存在と言うべきであろうか」と言いますが、禅師が取り上げたたった一人の俗人が皇帝であったということに、私としては、実は少々違和感があります。どうも、仏教を権威づけようとしている感じがあって、できれば、もう少し無名の人であってほしかったような、…。》


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3 宣宗~3

 のちに杭州塩官斉安国師の会(エ)にいたりて、書記に充(ジュウ)するに、黄檗禅師、ときに塩官の首座(シュソ)に充す。ゆゑに黄檗と連単なり。
 黄檗ときに仏殿にいたりて礼仏(ライブツ)するに、書記いたりてとふ、
「仏に著(ツ)いて求めず、法に著いて求めず、僧に著いて求めず、長老礼(ライ)を用いて何にかせん。」
 かくのごとく問著(モンヂャク)するに、黄檗便掌(ビンショウ)して、沙弥書記にむかいて道(ドウ)す、
「仏に著いて求めず、法に著いて求めず、僧に著いて求めず、常に如是(ニョゼ)の事を礼す。」かくのごとく道しをはりて、又掌(ショウ)すること一掌す。
 書記いはく、「太麁生(タイソセイ)なり。」
 黄檗いはく、「遮裏(シャリ)は是れ什麽(ナニ)の所在なれば、更に什麽の麁細(ソサイ)をか説く。」
 また書記を掌すること一掌す。書記ちなみに休去(キュウコ)す。

 

【現代語訳】
 宣宗は、後に杭州の塩官斉安国師の道場に行って書記に当てられましたが、黄檗禅師は、その時 塩官の首座(修行僧の頭)に当てられていました。そのために、宣宗は黄檗と僧堂で席を並べていました。
 黄檗がある時、仏殿に行って仏を礼拝していると、書記の宣宗が来て尋ねました。
「仏に執して求めることなく、法に執して求めることなく、僧に執して求めることがないのなら、長老は何のために礼拝しているのですか。」
 このように尋ねると、黄檗はすかさず平手打ちして沙弥の書記に言いました。
「仏に執して求めることなく、法に執して求めることなく、僧に執して求めることなく、いつもこのように礼拝しているのだ。」そう言って、また平手打ちしました。
 書記は「荒っぽいな。」と言いました。
 そこで黄檗が言うには、「ここにどんなことがあって、荒っぽいとか親切とかを言うのか。」
 そしてまた書記を平手打ちしました。書記はそこで黙りました。
 

《またしても「荒っぽい」話が出てきました。
 『提唱』によれば、「仏・法・僧というふうな三つの宝はいずれも尊いものではあるけれども、それに執着してはならないという教えが仏教には伝えられておる」のだそうで、宣宗は仏殿で「礼仏」する黄檗に、そのことを問うたのですが、黄檗はそれに対して三度の平手打ちで答えたのでした。
 『提唱』は、ここの三度目の平手打ちの後、宣宗は「おやおや、これではどうにも手がつけられない、ということでその場はおさまった」と言っていますが、それでは、これによって宣宗は納得したわけでもないということになり、それでは、宣宗は何も悟らなかったことになってしまって、ここに他の仏祖と並んで語られる意味がないように思われます。
 やはり『行持』の言うように「三度打たれて、やっと、その真意を悟って、それ以上黄檗を追及することをやめてしまった」というくらいには考えなくてはならなのではないでしょう。
 では黄檗が教えた、その「真意」とは何か。
 黄檗が「礼仏」したのは、仏法僧に対して何かを求めるということではなく、自分が行持を行おうとする前に仏の姿があったから礼したまでで、自分の振る舞いは仏法僧のあるなしに関わらず、同じことをするのだ、と言っているのでしょう。「純一に辨道する」(第三十章1節)ことの大切さではないでしょうか。
 ではなぜ「便掌」したのか。先に黄檗が臨済に六十棒を食らわしたという話があり(第三十章1節)、そこではそのたたかれた痛みによって、実存的自己に気づかしめたのではないか、と考えてみたのでしたが、ここも同じように、そういう理屈にこだわらないで、もっと生の自分、裸の自分になれ、と言っている、ということでしょうか。
 ちなみに「太生」の「麁」は俗字でもとは「麤」、鹿が集まっている形で、「しかの群は羊のように密集しないところから、遠くはなれる、あらいの意味をあらわす」(『漢語林』)のだそうです。》


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2 宣宗~2

 ひに父王の邦(クニ)をはなれて、ひそかに香厳の閑禅師の会に参じて、剃頭して沙弥となりぬ。しかあれども、いまだ不具戒なり。智閑禅師をともとして遊方(ユホウ)するに、廬山(ロザン)にいたる。ちなみに智閑みづから瀑布(バクフ)を題していはく、
 「崖(ガク)を穿(ウガ)ち石を透して労を辞せず、
  遠地(エンチ)(マサ)に知りぬ出処の高きことを。」
 この両句をもて沙弥を釣他(チョウタ)して、これいかなる人ぞとみんとするなり。
 沙弥これを続(ゾク)していはく、
 「渓澗(ケイカン)(アニ)能く留め得て住(トド)めんや、
  終(ツイ)に大海に帰して波濤と作(ナ)る。」
 この両句をみて、沙弥はこれつねの人にあらずとしりぬ。
 

【現代語訳】
 宣宗は、ついに父王の国を離れて密かに香厳寺の智閑禅師の道場に入門し、髪を剃り落として沙弥(見習い僧)となりました。しかし、まだ僧の具足戒を受けていませんでした。
 沙弥の宣宗は、智閑禅師と共に遊行して廬山に至りました。そのとき智閑は、自ら滝を題して詠じました。
 「崖を穿ち、石を砕いて疲れを知らず。
  遠方なれば、まさしくその滝口の高きを知る。」
 この詩で沙弥を釣って、どんな人物か試してみたのです。
 沙弥は、これに続けて詠じました。

「渓流は、どうして止めることが出来ようか。
  終には大海に集まり波浪となる。」
 智閑はこの詩を聞いて、沙弥が普通の人でないことを知りました。
 

《智閑の詩句は暗に宣宗をたとえたものと解するようで、「崖を穿ち…」は「沙弥の行持の、労を惜しまぬ精進のさまを」、「遠地方に…」は「遠く離れた所において」と訳して、以下、「その人柄の高貴なる様子を意味させた」と『行持』が言います。
 「遠地」がよく分かりませんが、あなたの生まれた土地は遠く離れて来てしまってはいるが、「出処の高きこと」は十分に察せられる、というような意味でしょうか(そうだとすると、訳の「遠方なれば」はちょっとへんで、遠くからでも、とか)。
 それに答えた宣宗の詩句は、「谷水に我が身を喩えて、そのとどむべからざる力を保持しているのであるから、終局には、大海に落ち着いて、波濤をなすに至るという、内心の覚悟を以て答え、常人にあらざる見識・意志を示したことになる」(同)ようです。
 自分がこれから辿って行くであろう道筋はだれも留められないであろうと、持って生まれた強い運命を言い、みずから「波濤」となるだろうと宣言するなど、こうした境遇にあったにしては、ずいぶん自信に満ちた言葉で、確かに「つねの人」ではない感じです。
 幼時、「戯而して龍牀にのぼりて揖群臣勢をなす」(前節)とありましたが、戯而して」は大人からそう見えたというだけのことで、彼自身としては、何気ない普通の振る舞いだったのかも知れません。
 そういう人が、甥たちからの冷遇を一体どういう気持ちで受けとめていたのか、と思うと、その精神の強靱さに感嘆します。
 昔、『東京八景』(太宰治)を読んでいて、作者自身とおぼしき主人公が、師(井伏鱒二がモデルでしょう)と美術館に行き、ある絵の前で師が、「だめだね」と言ったのに対して「ええ、だめです」と応じる場面に出会い、あのひ弱で自虐的に見える太宰も、こんなにきっぱりと明快にものを言う人だったのかと驚いた記憶があります。


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