『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

行持 上

1 宣宗~1

 唐宣宗皇帝は、憲宗皇帝第二の子なり。少而(ショウニ)より敏黠(ビンカツ)なり。よのつねに結跏趺坐(ケッカフザ)を愛す、宮にありてつねに坐禅す。
 穆宗(ボクソウ)は宣宗の兄なり。穆宗在位のとき、早朝罷(ソウチョウハ)に、宣宗すなはち戯而(ケニ)して、龍牀にのぼりて揖群(ユウグン)臣勢をなす。大臣これをみて、心風なりとす。すなはち穆宗に奏す。穆宗みて、宣宗を撫而(ブニ)していはく、「我が弟は乃ち吾が宗(ソウ)(ノ)英冑(エイチュウ)也。」ときに宣宗、としはじめて十三なり。
 穆宗は長慶四年晏駕(アンガ)あり。穆宗に三子あり。いはゆる、一は敬宗、二は文宗、三は武宗なり。
 敬宗父位をつぎて三年に崩ず。文宗継位するに一年といふに、内臣(ダイシン)謀而(ボウニ)、これを易(エキ)す。
 武宗即位するに、宣宗いまだ即位せずして、をひのくににあり。武宗つねに宣宗をよぶに癡叔(チシュク)といふ。武宗は会昌(カイショウ)の天子なり、仏法を廃せし人なり。
 武宗あるとき宣宗をめして、昔日ちちのくらゐにのぼりしことを罰して、一頓打殺(イットンタセツ)して、後華園のなかにおきて、不浄を灌(カン)するに復生(フクセイ)す。
 

【現代語訳】
 唐の宣宗皇帝は、憲宗皇帝の第二子で、幼少の頃から聡明でした。宣宗は、平生に結跏趺坐を好み、宮殿の中で常に坐禅をしていました。
 穆宗は宣宗の兄にあたります。穆宗が天子の位にあったある日、早朝の政務が終わると、宣宗は冗談で天子の座に上って群臣に挨拶しました。大臣はこれを見て少し気が狂ったようだ言って、穆宗に奏上しました。穆宗はそれを見て、宣宗を撫でで言うには、「私の弟は、我々一族の優れた跡継ぎである。」と。この時宣宗は、十三歳になったばかりでした。
 穆宗は長慶四年に亡くなりました。穆宗には三人の息子がいました。長男は敬宗、次男は文宗、三男
武宗です。
 敬宗は、父の位を継いで三年で亡くなりました。そこで文宗が後を継ぎましたが、一年ほどで臣下が謀って退位させました。
 そして武宗が即位しましたが、宣宗は未だ即位せずに、甥である武宗の国にいました。武宗はいつも、宣宗をばか叔父と呼んでいました。武宗は唐の会昌年間の天子で、仏法を迫害した人です。
 武宗はある日宣宗を呼びつけて、昔父の玉座に上ったことを罰して一息に打ち殺し、後華園の中に置いて小便をかけると、宣宗は生き返りました。

《二十三人目は宣宗(八一〇年―八五九年)で、ここに挙げられる中のただ一人の俗人です。サイト『試み』ではこのあたりを三章に分けていますが、ここでは都合上、一章3節にまとめて読むことにします。
 これまでの人と書き方が異なって、ここではその生い立ち、来歴が延々と語られます。
 まず「戯而して、龍牀にのぼりて…」というエピソードが語られますが、「少而より敏黠」、「宮にありてつねに坐禅す」という日頃の様子とはちょっと違和感のある振る舞いに思われます。十三歳で、そういう聡明さなら、まずいと思って不思議ではないと思いますが、やんちゃな一面があったということでしょうか。
 兄・穆宗はこれを擁護したということで、むしろ穆宗のおおらかさを思わせる話ですが、、禅師としては兄も一目置く聡明さだったという例として語っているのかも知れません。
 穆宗が早く亡くなって(二十九歳)、その子たちが次々に後を継ぎ、三男・武宗が二十七歳で継いだときに宣宗(まだ宗ではありませんが)は三十一歳だったようです。
 武宗は彼を「ばか叔父」と呼んで「軽んじるふうでしたが、「一頓打殺」したというのは、実はその「敏黠」を恐れていたのではないでしょうか。また「不浄を灌する」から見ると、あるいは父・穆宗がほめたことを嫉んでもいたかも知れません。
 「不浄を灌するに」は、「小便を掛けたのだが、」と逆接に訳すべきではないかと思われますが、ここでは「小便をかけると」と順接に訳し、『行持』も同様に「注ぎかけたところ」と訳して「偶然の奇蹟」としています。
 ともあれ、しかし不思議にも宣宗は生き返ったのでした。》


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2 臨済~2、黄檗

 師、黄檗(オウバク)に在りしとき、黄檗と与(トモ)に杉松(サンショウ)を栽(ウ)うる次(ツイ)でに、黄檗、師に問うて曰く、「深山の裏(ウチ)に許多(ソコバク)の樹を栽えて作麽(ナニニカセン)。」
 師曰く、「一には山門の与(タメ)に境致(キョウチ)と為し、二には後人の与に標榜と為す。」
 乃(スナハ)ち鍬を将(モッ)て地を拍(ウ)つこと両下(リョウゲ)す。
 黄檗、拄杖(シュジョウ)を拈起(ネンキ)して曰く、「然(シカ)も是(カク)の如くなりと雖も、汝已(スデ)に我が三十棒を喫し了(オワ)れり。」
 師、嘘嘘声(キョキョセイ)をなす。
 黄檗曰く、「吾が宗、汝に到って大いに世に興らん。」
 しかあればすなわち、得道ののちも杉松などをうゑけるに、てづからみづから鍬柄(シュウヘイ)をたづさへけるとしるべし。
 吾宗到汝大興於世、これによるべきものならん。
 栽松道者(サイショウドウシャ)の古蹤(コショウ)、まさに単伝直指(ジキシ)なるべし、黄檗も臨済とともに栽樹するなり。
 黄檗のむかしは、捨衆(シャシュ)して大安精舎(ショウジャ)の労侶(ロウリョ)に混迹(コンセキ)して、殿堂を掃灑(ソウサイ)する行持あり。仏殿を掃灑し、法堂(ハットウ)を掃灑す。心を掃灑すると行持をまたず、ひかりを掃灑すると行持をまたず。
 裴相国(ハイショウコク)と相見(ショウケン)せし、この時節なり。

 

【現代語訳】
 臨済が黄檗禅師の所にいた時、黄檗と共に杉や松を植える作業をしていると、黄檗は臨済に尋ねました。「この山奥にたくさんの木を植えてどうしようというのかね。」
 臨済は答えて、「一つには、この寺のために境内の風光とし、二つには、後世の人のために目印とするのです。」 そう言って鍬で地面を二度打ちました。
 すると黄檗は杖を手に取って言いました。「そう答えても、お前はとっくに私の三十棒を受けてしまったぞ。」
 臨済はハーッと大きく息を吐きました。
 黄檗は言いました。「私の教えは、お前の代で大いに世に興るであろう。」
 このように、臨済は悟りを得た後も、杉や松を植えるのに、わざわざ自分の手で鍬を取ったことを知りなさい。
 黄檗の「私の教えは、お前の代で大いに世に興るであろう。」という言葉も、臨済のこの修行力によるものでしょう。
 臨済は、栽松道者と呼ばれた五祖 大満禅師の行跡を、まさにそのまま伝えているのです。黄檗も臨済と共に木を植えたのです。
 黄檗(希運)禅師は昔、道場の僧衆を捨てて大安寺の労働の仲間にまじり、伽藍を掃き清める行持がありました。仏殿を掃き清め、法堂を掃き清めたのです。それは心を掃き清めるための行持でも、仏の光を掃き清めるための行持でもありませんでした。
 宰相の裴相国と出会ったのも、この頃でした。

 

《ここの二人の一つひとつの言動の意味はよく分かりません。
 初めの臨済の答えは、ごく普通のものですが、そう言って鍬で地を打ったことにはどういう意味があるのか。例えば『提唱』は「わかりましたか」という意味だと言い、『行持』は「この行持を生涯にわたり努め抜くという覚悟の表明」という解釈があると言います。
 次の黄檗の言葉についても、『提唱』は「そんな生ぬるい答えではもうわしは三十回ぐらいおまえをぶんなぐっておる」という意味だとしていますが、『行持』は「臨済が自己(黄檗を指すと思われます)の仏法をすべて学び得たという印可のことを表して」いると言います。
 「嘘嘘声」はその師の言葉を無視する表現とする点で同じ(ちなみに「嘘」は「ゆっくり息を吐き出す」という意)ですが、前を『提唱』のように解すると、それを以て「吾が宗、汝に到って大いに世に興らん。」と言い得たのは、なぜかという疑問が残ります。
 前節で触れたように、禅師の関心は「臨済大悟」よりもこちらのエピソードの方にあったようですが、その意味がよく分からないのが残念です。
 前節の大悟に至る話では「純一」なる言葉が繰り返して使われて、臨済が黄檗と睦州の指導を言われるがままにまっすぐに受け入れている姿が描かれていますし、ここでは「てづからみづから」ということが強調されて、臨済の行持がそういう愚直なものであったことが述べられているように見えます。
 そして最後に「栽松道者の古蹤、まさに単伝直指なるべし」と、師弟の関係の緊密さで結ばれています。
 『行持』は、そういう点を指して、禅師は、行持はかくあるべしと語っているのだと、言っていて、なるほどと思わされます。
 「黄檗のむかしは」以下を『行持』は二十二人目、黄檗の話として、章を改めています(『全訳注』も黄檗を一人としてあげています)。
 ここの初めから黄檗の話としてもよさそうです。『行持』はこれを、「いわゆる得法以後の悟後の行持」であると言っています。得度を目指すのではない、いわば無償の行持とでもいうべき、純粋な行持を行った、ということでしょうか。
 宰相の裴は、黄檗に帰依して、黄檗との問答集を残し、またいくつかの仏書も書いた人だそうです。


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1 臨済慧照~1

 臨済院慧照(エジョウ)大師は、黄檗(オウバク)の嫡嗣(テキシ)なり。黄檗の会(エ)にありて三年なり。純一に辨道するに、睦州陳尊宿の教訓によりて、仏法の大意を黄檗にとふこと三番するに、かさねて六十棒を喫す。
 なほ励志(レイシ)たゆむことなし。大愚にいたりて大悟することも、すなはち黄檗、睦州両尊宿の教訓なり。
 祖席の英雄は臨済徳山といふ。しかあれども、徳山いかにしてか臨済におよばん。まことに臨済のごときは、群に群せざるなり。そのときの群は、近代の抜群よりも抜群なり。行業(ギョウゴウ)純一にして行持抜群せりといふ。幾枚幾般の行持なりとおもひ擬せんとするに、あたるべからざるものなり。 

【現代語訳】
 臨済院の慧照大師(臨済義玄)は、黄檗(希運禅師)の法を嗣いだ人です。黄檗の道場にあって三年の間 純一に修行していた時に、睦州陳尊宿(道明)の教えによって、三度仏法の大意を黄檗に尋ね、重ねて六十棒を受けました。
 それでもなお求道の志は弛むことがありませんでした。大愚和尚(高安大愚)の所に行って大悟したことも、黄檗禅師と睦州和尚の二人の教えによるものです。
 祖師の中で傑出した人物は、臨済(義玄)と徳山(宣鑑)であるといわれます。しかし、徳山はどうして臨済に及びましょうか。まことに臨済のような人物は、修行者の中でも跳び抜けた人でした。しかもその時代の修行者は、近代の抜群の修行者よりも優れていたのです。臨済の行いは純一で、その修行は抜群であったと言われます。どれほど様々な行持をされたかを想像し推量しようとしても、出来るものではありません。
 

《二十一人目は臨済(八六七年沒)の話です。ここは臨済大悟と称される名高い話で、『臨済録』にあるというその話の大筋は次のようなことのようです。
 黄檗のもとから大愚を訪ねた臨済は、黄檗に事情を訊ねられて、仏法を訊ねたら六十回殴られたと話します。すると大愚は、黄檗はずいぶん親切な教え方をしたものだ、と言いました。そのとたんに臨済は、何だ、それだけのことだったのかと「大悟」した、というのです。そこで大愚が、お前に何が分かったのかと問うと、臨済はこういうふうに分かったと大愚の脇腹を三度殴りました。納得した大愚にお前の師はやはり黄檗だと言われて臨済は帰って行きます。臨済から経緯を聞いた黄檗が、大愚め余計なことを言ったものだ、今度あったら殴ってやろうと言うと、臨済が、それまで待つことはありませんと言って、いきなり黄檗の頬を殴ったので、黄檗は臨済の大悟が本物だと分かって喜んだ、…。
 どうも大変に殺伐とした大悟ですが、いささか思いつき的に解釈すれば、仏法とは理屈ではない、殴られて痛い自分がいる、そのことに気づくことだというような意味でしょうか。自己の実存に気づく、と言う方が分かり易いかも知れませんが、それは、やはり理屈で理解する感じで、「痛い」の方が、身にしみて分かる感じがします。
 ただ、痛いのは誰でも痛いのですが、要点は、その痛い自分に徹することができるかどうかで、その徹した姿が、師を殴るという存在の主張によって表現されている、というような気がしますが、どうでしょうか。痛切な痛みを感じている者同士は、つまり実存同士が向き合っている姿であり、人間存在の原初的光景だ、というわけです。
 もっとも、禅師はこのエピソードへの関心は、そういう点ではないようです。そのことについては、次の節で。》


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香厳智閑

 香厳(キョウゲン)の智閑(シカン)禅師は、大潙(ダイイ)に耕道せしとき、一句を道得せんとするに、数番つひに道不得(ドウフトク)なり。これをかなしみて、書籍(ショジャク)を火にやきて、行粥飯僧(ギョウシュクハンゾウ)となりて、年月を経歴(キョウリャク)しき。
 のちに武当山にいりて、大証の旧跡をたづねて、結草為庵(イアン)し、放下(ホウゲ)幽棲す。一日わづかに道路を併浄(ヘイジョウ)するに、礫(カワラ)のほとばしりて、竹にあたりて声をなすによりて、忽然として悟道す。
 のちに香厳寺に住して、一盂一衲(イチウイチノウ)を平生(ヘイゼイ)に不換なり。奇巌(キガン)清泉をしめて、一生偃息(エンソク)の幽棲とせり。
 行跡おほく本山にのこれり。平生に山をいでざりけるといふ。
 

【現代語訳】
 香厳寺の智閑禅師は、大潙禅師(潙山霊祐)の下で修行していた時、大潙に生まれる前の自己を問われて、幾度も答えようとしましたが、遂に答えることが出来ませんでした。智閑はこれを悲しんで、持てる書物を焼いて、粥飯を給仕する僧となって月日を送りました。
 後に武当山に入り、大証国師の旧跡を訪ねて草庵を結び、全てを捨てて静かに住んでいました。ある日のこと、少し道路を掃き清めていると、小石が飛び散って竹に当たり、音を立てたことで、たちまち仏道を悟りました。
 智閑は、後に香厳寺に住んで、平生 一衣一鉢を換えない簡素な生活を送りました。山中の奇岩や清泉を場所として、一生安息の住み処としたのです。
 智閑禅師の行跡は、武当山に数多く残っています。禅師は平生、山を出ることはなかったといいます。
 

《二十人目、香厳智閑(八九八年沒)のエピソードです。
 初めの「書籍を火にやきて、行粥飯僧となりて」は、前章の一知半解なくとも、無為の絶学」の話の流れと思われます。
 「悟道」の時の話は、「香厳撃竹」と称される名高い話で、この書の中でも先の「渓声山色」巻で詳しく語られています(第四、五章)。
 私はそこで「静寂の中の乾いた澄んだ音によって、周囲の山荘の光景が、突然太初の原風景に変わり、智閑はその中に佇んでいる原初の自己の姿を感じたのだ、と思ってみたい気がします」と書きました。
 ここでは、そのことよりも、前の「放下幽棲」、後の「一盂一衲」が話の中心かと思われます。
 なお、大潙が問うたのは「父母未生以前」の消息の「一句」だったのですが、香厳はこの経験の後に師に「一撃に所知を亡ず」に始まる偈を以て応え、師から「此の子、徹せり」と認可を得ました。これもまた、前節の「説似一物即不中」に通じる認識です。



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大慧懐譲

南岳大慧(ダイエ)禅師懐譲(エジョウ)和尚、そのかみ曹谿(ソウケイ)に参じて、執侍(シュウジ)すること十五秋なり。しかうして伝道授業(ジュゴウ)すること、一器水瀉一器(イッキスイシャイッキ)なることをえたり。古先の行履(アンリ)、もとも慕古(モコ)すべし。
 十五秋の風霜、われをわづらはすおほかるべし。しかあれども、純一に究辨(キュウベン)す、これ晩進の亀鏡なり。
 寒爐(カンロ)に炭なく、ひとり虚堂にふせり。涼夜に燭なく、ひとり明窓に坐する。たとひ一知半解(ハンゲ)なくとも、無為の絶学なり。これ行持なるべし。
 おほよそひそかに貪名(トンミョウ)愛利をなげすてきたりぬれば、日日に行持の積功(シャック)のみなり。このむね、わするることなかれ。
 説似一物即不中(セツジイチモツソクフチュウ)は、八箇年の行持なり。古今のまれなりとするところ、賢不肖(ケンフショウ)ともにこひねがふ行持なり。
 

【現代語訳】
 南嶽の大慧禅師懐譲和尚は、昔、曹谿(六祖大鑑慧能禅師)に入門して、十五年間 そばに仕えました。そして六祖の道を、一器の水を一器に移し替えるように受け継ぎました。この古聖の行跡は、最も慕うべきものです。
 六祖に仕えた十五年間は、さぞ自分を煩わすことも多かったことでしょう。しかし、ただひたすらに仏道を究明したのです。これは後輩のよき手本です。
 冬の囲炉裏に炭はなく、一人で空の堂に臥したのです。涼しい夜には燭もなく、一人で月明かりの窓辺に坐ったのです。たとえ少しも悟るところが無くても、それは無為の仏道でした。これが行持というものです。
 およそ密かに名利を愛する心を投げ捨てれば、日々に行持の功徳が積まれていくだけなのです。この道理を忘れてはいけません。
 懐譲和尚の「自分を一物と説くことは適切でありません。」という言葉は、八ヶ年の行持により得たものです。これは古今にも希なことであり、賢い人も愚かな人も、共に願い望む行持です。
 

《十九人目、大慧懐譲(七四四年沒)のエピソードです。
 十五年間師に仕えて学び、師の教えをそのまま丸ごと受け継いだこと、その十五年を「純一に究辨」したこと、などが語られますが、なんと言っても「一知半解なくとも、無為の絶学」であるという、禅師の評が目をひきます。「一知半解」は「生かじりに知っていること」(『行持』)、「ほんのわずかばかりの知識、…理解」(『提唱』)などとさまざまに訳されていますが、知識・理解ではなく、ここの訳のように「少しも悟るところがなくても」と言う気持ちではないかと思われます。いささかの悟るところもなくても、ただ「寒爐に炭なく、ひとり虚堂にふせり。涼夜に燭なく、ひとり明窓に坐する」ということ自体が、真正の行持であって、その結果「無為の絶学」、自然に学問を越えた、「これ以上何も学ぶことのない悟りの境地」(『行持』)を得ているのだ、というあり方は素晴らしいと思います。市井の古老の中に時に、いわゆる職人肌で無口でひたすら自分の仕事に打ち込む人があっりますが、そういうイメージです。
 「説似一物即不中」は、懐譲の言葉で、普通、「一物を説似すれば、即ち中らず」と読んで、「仏法の本質は、ある言葉で説き及んでも、とたんに的はずれとなる」(『行持』)というような意味とされるようです。師の曹谿に就いて八年の修行の後に(一説に初見の時とされますが)、お前はどこから来たのかと問われて答えた言葉で、開悟の言葉とされます。
 言葉では言えないことだけれども分かっている、ということは、あるいは、体に染みついて分かっているのだけれども、それ故に自分に分かっているという自覚がないことでしょうか。常人の及びも付かぬその道の名人が、自分ではまだまだ未熟だと思っているのによく似ています。
 この言葉は、前の一知半解なくとも、無為の絶学」の具体例としてあげられているのだと解するのがよさそうです。


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