『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

3 鏡清・義忠

 鏡清(キョウセイ)和尚住院のとき、土地神(ドジジン)かつて師顔をみることえず。たよりをえざるによりてなり。
 三平山(サンペイザン)義忠禅師、そのかみ天厨送食す。大顚(ダイテン)をみてのちに、天神(テンジン)また師をもとむるに、みることあたはず。
 

【現代語訳】
 鏡清和尚が寺院に住持している時、そこの土地神は全く師に会うことが出来ませんでした。修行に隙がなく消息を得られなかったからです。
 三平山の義忠禅師は、以前 天界の料理人が食事を送っていました。しかし、師が大顚(大顚宝通和尚)に会ってからは、天神が師を探しても会うことは出来ませんでした。
 

《九人目鏡清和尚(八六四年―九三七年)と十人目義忠禅師(八七二年沒)です。
 七人目の弘覚大師の話にもありましたが、渾身の修行をしている、またはそれを成就した僧は、並の人はその姿を見ることができない、という話です。
 また、同じ話はまとめてもらうと、いろいろ考えやすいような気がしますが、禅師に何か意図があってのこういう配列なのでしょうか。『行持』は、「(そういうことには)囚われずに、自由に、随意・随機に書き進めていると思う外はない」と言いますが。
 二人ともに同じ趣の話ですが、それぞれの結びを、「えず」(不得)と「あたはず」(不能)とに言い分けています。どちらも「できない」と訳しますが、その違いを漢文法では、普通、「えず」は機会がなくてできない、「あたはず」は当人に能力がなくてできない、という意味として区別する、と言います。
 ここはそのことは考慮されているのでしょうか。あるいは同じ言い回しを避けただけなのでしょうか。
 なお、「鏡清」の読み方は、『全訳注』、『行持』ともに「きんしん」としています。》

 

2 百丈懐海

 百丈山大智禅師、 そのかみ馬祖の侍者とありしより、入寂のゆふべにいたるまで、一日も為衆為人(イシュイニン)の勤仕(ゴンジ)なき日あらず。
 かたじけなく、一日不作(フサ)一日不食(フジキ)のあとをのこすといふは、百丈禅師、すでに年老臘高(ロウコウ)なり。
 なほ普請作務(サム)のところに、壮齢とおなじく励力(レイリキ)す。衆これをいたむ、人これをあはれむ、師やまざるなり。つひに作務のとき、作務の具をかくして、師にあたへざりしかば、師、その日一日不食なり。
 衆の作務にくははらざることをうらむる意旨(イシ)なり。これを百丈の、一日不作一日不食のあとといふ。
 いま大宋国に流伝(ルデン)せる臨済の玄風、ならびに諸方の叢林、おほく百丈の玄風を行持するなり。
 

【現代語訳】
 百丈山の大智禅師(百丈懐海禅師)は、以前、馬祖(馬祖道一禅師)の侍者を務めていた時から、亡くなる日の夕べに至るまで、一日たりとも修行者のために務めない日はありませんでした。
 かたじけないことに、「一日なさざれば、一日食らわず」という足跡を残したのは、百丈禅師がすでに長年修行を積み重ね、年老いてからのことです。
 師は老いても尚、皆で労働する時には、若い僧と同じように励まれたのです。修行僧はこれに心を痛め、人はこれを気の毒に思いましたが、師は止めようとしませんでした。そこで、とうとう労働の道具を隠して師に与えないようにすると、師はその日一日食事をしなかったのです。
 それは、修行僧の労働に加わらなかったことを残念に思っての事でした。
 これを百丈禅師の「一日なさざれば一日食らわず。」の足跡と言います。
 今、大宋国に広まっている臨済の宗風や、各地の禅道場では、その多くが百丈禅師の宗風を受け継いでいるのです。
 

《八人目、百丈懐海禅師(七四九年―八一四年)です。
 大変面白い、そしていい話です。ひたすら行持弁道に努めた人のようで、「一日不作、一日不食」ということを確立して生涯を終えました。入寂六十六歳とされます。
 さてその「一日不作、一日不食」にまつわるエピソードです。彼が年老いてなおあまりに務めに精励するのを見た弟子たちが高齢の彼の身を案じて、ある日彼の仕事の道具を隠してしまいました。
 その時の彼の当惑の姿が、日頃の彼の精励ぶりからして、目に浮かぶ気がします。おそらくすべてを自分の失念と考えて弟子に問うこともしないで、ひとり慌て戸惑い、といってばたばたと探し回ることもならず、また自責の方が先に立って軽く代わりの道具を使うことにも思い至らないままに、ついにつくねんと座り込んでしまった、といったところではないでしょうか。
 弟子たちは、その様子を物陰から見て、今日一日はお体を休めていただけると、作戦成功に満足するとともに、ほっとして顔を見合わせたことでしょう。
 ところが、その後老僧は食事を拒絶してしまいました。断固拒否したのでしょうか。いや、それではちょっと狭量に感じられます。恥じて食が喉を通らなかったのでしょうか、あるいうは、仕事をしなかったのだから当然と、淡々と「不食」だったのでしょうか。
 弟子たちは、思惑が裏目に出てかえって老僧の体によくないことになってしまったことを恥じながら、一方で、老僧の徹底した言行一致に感動を覚え、強烈な無言の教えを受けたのでした、というところでしょう。
 さまざまな人の姿が思い描かれる、大変面白い、そしていい話です。》

1 雲居山弘覚大師

 雲居山(ウンゴザン)弘覚(コウガク)大師、そのかみ三峰庵に住せしとき、天厨(テンチュウ)送食(ソウジキ)す。大師あるとき洞山に参じて、大道を決擇(ケッチャク)してさらに庵にかへる。
 天使また食(ジキ)を再送して師を尋見するに、三日を経て師をみることをえず、天厨をまつことなし。大道を所宗(ショシュウ)とす、辨肯の志気(シイキ)、おもひやるべし。
 

【現代語訳】
 雲居山の弘覚大師(雲居道膺禅師)が、以前、三峰庵に住んでいた時、天界の料理人が食事を送っていました。大師はある時、洞山(洞山良价禅師)に見えて、大道を悟って再び庵に帰りました。
 そこで、天人は又食事を送って師を尋ねたのですが、三日たっても師に会うことが出来ませんでした。師は天界の給仕を必要としなくなったのです。師の大道を尊ぶ固い志に思いをはせなさい。
 

《七人目は弘覚大師(雲居道膺禅師 七八二年―八四一年)です。
 「天厨送食」について、『提唱』が「このことがかつては信仰として信じられておった」として、それは必ずしも「天界の料理人」の仕業ではなく、一般の誰かでもあったであろうと言っていて、そういうことなら現実に十分ありそうなことと言えます。
 続けて同書は「仏道修行が完成すると、天使さえその姿を見ることができないようになる、そういう信仰があったわけであります」と言います。信仰なら、そうですかとしか言えないのですが、これにも何か現実的な背景があったのでしょうか。
 また、姿が見られなくなったということにどういう意味があるのか、ということも気になります。人間界を離れてしまった? しかしそれは仏法の考えるあり方ではないような気がします。あるいは現実的に、「天厨」を受けることを潔しとせず、雲水となって托鉢の生活に入った、とか、…。
 ともあれ、これだけの話では、「行持」ではなく、結果が語られているに過ぎず、ここから何を見習えと言われるのか、よく分からないのですが、『行持』は、「三峰庵の修行―洞山への参学―大道の決擇―三峰庵への帰住という四段階を貫く、大師の行持の精神の純一さ、強固さへの讃歎」が見られると言います。
 しかし私としては、やはり、修行、参学、決擇、帰庵という結果ではなく、それらがどのようになされたかという、事柄の具体的な様子の方を知りたいという気がします。》

 

プロフィール

ikaru_uta

カテゴリー
  • ライブドアブログ