『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

行持 下

如浄~11

 しづかにおもふべし、一生いくばくにあらず。仏祖の語句、たとひ三々両々なりとも道得せんは、仏祖を道得せるならん。
 ゆゑはいかん、仏祖は身心一如なるがゆゑに、一句両句、みな仏祖のあたたかなる身心なり。
 かの身心、きたりてわが身心を道得す。正当(ショウトウ)道得時、これ道得きたりてわが身心を道取するなり。此生道取累生身(此の生に累生の身を道取す)なるべし。
 かるがゆゑに、ほとけとなり祖となるに、仏をこえ祖をこゆるなり。三々両々の行持の句、それかくのごとし。
 いたづらなる声色(ショウシキ)の名利に馳騁(チヘイ)することなかれ、馳騁せざれば仏祖単伝の行持なるべし。
 すすむらくは大隠小隠、一箇半箇なりとも、万事万縁をなげすてて、行持を仏祖に行持すべし。

 正法眼蔵 仏祖行持 第十六下

仁治三年 壬寅(ミズノエトラ)四月五日、観音導利興聖宝林寺に于(オ)いて書く。
同四年 癸卯
(ミズノトウ)正月十八日 書写、同三月八日 校点了。懐弉

 

【現代語訳】
 静かに考えてみなさい。人の一生はそれほど長くありませんが、仏祖の言葉を、たとえ二三句でも説き尽くすことが出来れば、それは仏祖を説き尽くすことになるのです。
 何故ならば、仏祖は身と心が一如なので、その一、二句は、皆仏祖の温かな身心だからです。
 その身心がやって来て、自分の身心を説き尽くすのです。その説き尽くす時には、仏祖の説法がやって来て、自分の身心を説くのです。今生に於いて累生の身を説くのです。
 それゆえに、仏となり祖師となるために、仏を越え祖師を越えていくのです。仏祖の二、三の行持の句とは、こういうものです。
 空しい俗世の名利のために走り回ってはいけません。走り回らなければ、仏祖が親しく相伝した行持なのです。
 皆に勧めたいことは、町中に隠れる賢者であれ、深山に隠れる賢人であれ、たとえ一人半人であろうとも、万事万縁を投げ捨てて、自らの行持を仏祖に倣って行持してほしいということです。
 

《さて、この長い巻の結びの言葉です。
 ここでは二つのことが説かれていると思われます。その一つは、仏祖の語句(それは行持と言ってもいいでしょう)は、そのほんの端々でも、その一つ一つがその仏祖そのものであるということ。それが可能であれば、それは何とも美しい姿です。
 腹の底から指先までが、ただ一色で、どこを切っても彼の姿がそのままにある、何をしても彼であり、何を言っても彼である、そういうあり方をしたいものだと、本当に思います。もちろん、どこを切っても守銭奴、どこを切っても無道、というのでは困りますが、…。我が家の庭に小さな紅梅の木がありますが、あるとき、この枝を切って切り口を見ると、その枝の芯まで赤いのに驚きました。
 ここまで語られてきた数々の仏祖たちのエピソード、その一つを自分のものにすることができれば、それはその仏祖をまるごと理解したことになる、…。
 二つ目は「かるがゆえに」以下で、そこに語られているのは、したがって、その仏祖の行持の一端を道取すれば、その仏祖を超えることになるのだ、ということであると思われます。
 その仏祖と同列、肩を並べる、というのではなく、「超える」であるところが不思議です。百メートルを9秒72で走れば、世界記録でボルトと並ぶことになるのですが、仏道では、ボルトを超したことになる、それはその仏祖を自分の「中に」宿すので、自分はそれより大きいからだ、というような理屈が考えられます。
 こんな素晴らしい励ましの言葉はないのではないでしょうか。

 

 次から「菩提薩埵四摂法」巻を読んでみます。》


                                行持 下 おわり。


如浄~10

 先師の会(エ)に、西蜀の綿州人にて、道昇とてありしは、道家流なり。徒党五人、ともにちかうていはく、「われら一生に仏祖の大道を辨取すべし、さらに郷土にかへるべからず。」
 先師ことに随喜して、経行道業(キンヒンドウゴウ)、ともに衆僧(シュゾウ)と一如ならしむ。その排列のときは、比丘尼のしもに排立(ハイリュウ)す。希代の勝躅(ショウチョク)なり。
 又福州の僧、その名善如、ちかひていはく、「善如平生さらに一歩をみなみにむかひてうつすべからず、もはら仏祖の大道を参ずべし。」
 先師の会に、かくのごとくのたぐひあまたあり、まのあたりみしところなり。余師のところになしといへども、大宋国の僧宗(ソウシュウ)の行持なり。
 われらにこの心操なし、かなしむべし。仏法にあふときなほしかあり、仏法にあはざらんときの身心、はぢてもあまりあり。
 

【現代語訳】
 先師の道場に、西蜀綿州の人で、道昇という道家の人がいました。道昇は仲間五人と共に誓って言うことには、「我等は、この一生の中に仏祖の大道を会得するつもりです。それまでは決して郷土に帰りません。」と。
 先師はそれを特に喜んで、日常の修行を修行僧たちと同じにしました。又その者たちが並ぶ時には、尼僧の下に並ばせました。これは世にも希な優れた行いでした。
 又 福州の僧で、善如と名乗る者も誓って言いました、「私は平生、決して一歩たりとも南の故郷に向いません。専ら仏祖の大道を学ぶつもりです。」と。
 先師の道場には、このような人たちが多数いたことを、私は目の当たり見てきました。他の師の所にこのような人物はいないけれども、これが大宋国の僧家の行持なのです。
 我等にこの志操のないことを、悲しまねばなりません。仏法に出会った時でさえそうなのですから、仏法に出会わなかった時の我々の身心は、恥じても余りあります。

《以前、南嶽と馬祖との間で交わされたことのある(第三十章)帰郷の問題ですが、ここでは帰るか帰らないかという問題ではなくて、「如浄の家風・教化が会下の修行者たちにも浸透していった跡」(『行持』)を語っていると見るのがいいようです。
 「道家」の人でさえ、それも五人も揃って、そうだったのだと挙げることで、そのことを強調しようとしているのでしょう。
 同書は更に続けて、この二人のエピソードによって「如浄の天童山景徳寺の修行者が、いかに緊張し、充実した辨道生活を送っていたかが身に沁みてくる」といいますが、確かに「先師ことに随喜して、経行道業、ともに衆僧と一如ならしむ」という喜び方には、師弟の緊密な交感が感じられて、微笑ましく思われます。
 「その排列のときは、比丘尼のしもに排立す」がよく分かりません。『行持』が「仏教では、四衆といって、比丘(出家男性)・比丘尼(出家女性)・優婆塞(在家男性)・優婆夷(在家女性)という仏弟子の階級が決められている」と言いますが、そうすると道昇たちは男性としては下位に置かれたわけで、先の「ことに随喜して」とは食い違う扱いのように思えます。弟子に加えられただけでよしとすべきだということなのでしょうか。
 終わりの「われら」は、「『大宋国』に対する『日本国』の僧侶のこと」で、禅師自身を含む言い方ですが、謙遜の気持ちからというのではなくて、そのように言うことによって他に言うとともに、無論自分を戒める気持ちを示したものだ、と考だえたいところです。》

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如浄~9

先師いはく、「先公の冥福円成(エンジョウ)なり、襯施(シンセ)は且(シバラ)く先公の台判を待つべし。」
 かくのごとくいひて、すなはち請暇(シンカ)するに、提挙いはく、「未だ不領なるをば恨みず、且(タダ)喜ぶ師を見ることを。」
 かくのごとくいひて、先師をおくる。

浙東浙西の道俗、おほく讃歎す。このこと、平侍者が日録にあり。
 平侍者いはく、「這(コ)の老和尚は、得べからざる人なり、那裏(ナリ)にか容易(ヤタス)く見ることを得ん。」
 たれか諸方にうけざる人あらん、一万鋌の銀子。ふるき人のいはく、「金銀珠玉、これをみんこと糞土のごとくみるべし。」
 たとひ金銀のごとくみるとも、不受ならんは衲子(ノッス)の風なり。先師にこの事あり、余人(ヨニン)にこのことなし。
 先師つねにいはく、「三百年よりこのかた、わがごとくなる知識いまだいでず、諸人審細に辨道功夫すべし。」
 

【現代語訳】
 先師は言いました。「亡くなられた御尊父の冥福は円満に果たされました。お布施の方は、一先ず御尊父の審判を待つことにしましょう。」
 先師はこのように言って暇乞いをすると、長官は言いました。「お布施をまだ受け取って頂けないことを残念には思いません。ただ師にお目にかかれたことを嬉しく思います。」
 長官は、このように言って先師を送りました。
 この話を聞いた浙江省の東西の道俗は、その多くが賛嘆したと言います。このことは、平侍者の日々の記録にあります。
 平侍者は言いました、「この老和尚は得難い人である。このようなお方には、何処でも容易にはお目にかかれないであろう。」と。
 誰か諸方に、一万鋌の銀貨を受け取らない人がありましょうか。昔の人の言うことには、「金銀珠玉を腐った土のように見なさい。」と。
 このように、たとえ金銀のように見ても、受け取らないのが禅僧の家風です。先師如浄和尚にこの事があり、他の人には、このような事はありませんでした。
 先師は常に言っていました、「三百年この方、私のような指導者はまだ出ていない。諸君よ、おのおの油断することなく修行精進しなさい。」と。
 

《如浄は、「襯施は且く先公の台判を待つべし」と、なにやら西欧ドラマにでもありそうなしゃれた言葉で婉曲に布施を辞退して、帰って行きました。
 趙は、如浄の問いを私のようには感じなかったようで、やはり田舎の善良なお爺さんのような別れの挨拶をして見送った、と言います。
 「浙東浙西の道俗」も同様に、如浄の清廉にして毅然とした態度、「いつも仏道に遵って進退を決する、その禅風」(『行持』)を讃えたようで、同書は「その独自性、孤高性を強く指示していることも著しい」と言います。
 やはり、私のような読み方は、西欧個人主義にかぶれた人道的な発想(それは孤高性とは相容れない考え方だと思われます)で、軟弱で近視眼的な見方ということになるのでしょう。
 「平侍者」というのは、『行持』よれば、如浄に仕えていた広平という侍者なのだそうです。
 ところで、後の「供養諸仏」巻の初めには、これとは全く逆の話が載っています。釈尊が「転輪聖王」(王さま)であったころ、「そこばくの諸仏を供養」したことがあって、「(その)供養諸仏の具、まことに豊饒」であっただろう、というのです。また、どこかで、伏せという行為は信者にとっては極めて重要な行為である、ともあったように思います。
 必要以上の物品を受け取ってはならないという教えは、もちろん清廉で尊く思われますが、それらはどのようにかみあうのでしょうか。修行者はダメで、覚者ならよいとか、というわけでもないでしょうが。
 現実にお寺に参拝すると、本堂に華美な装飾品が寄付されているのをよく見ますが、どうも落ち着きません。》

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2 如浄~8

先師曰く、「提挙の台命且つ厳なり、敢へて遜謝せず。只し道理有り、某甲、陞座(シンゾ)説法す、提挙聰(アキラ)かに聴得すや否や。」
 提挙曰く、「下官只聴いて歓喜す。」
 先師いはく、「提挙聡明にして山語を照鑑す、皇恐に勝(タ)へず。更に望むらくは台臨、鈞候万福。
 山僧陞座の時、甚麽(ジンモ)の法をか説得する、試みに道(イ)へ看(ミ)ん。若(モ)し道ひ得ば、銀子一万鋌を拝領せん。若し道ひ得ずんば、便ち府使銀子を収めよ。」
 提挙、起(タ)って先師に向って云く、「即辰伏して惟(オモン)みれば和尚、法候動止万福。」
 先師いはく、「這箇(シャコ)は是れ挙(コ)し来る底(テイ)、那箇(ナコ)か是れ聴得底なる。」
 提挙擬議す。

 

【現代語訳】
 先師は答えました、「長官のお言葉はまことに厳しく、とてもお断り出来るものではございませんが、しかし、私にも訳がございます。私は先ほど高座で説法しましたが、長官は、それをはっきりとお聞き取りいただけましたでしょうか。」
 長官は言いました、「私は、ただただお話をお聞きしまして、喜びで一杯でございます。」
 先師は言いました。「長官はご聡明であり、私の言葉をお聞き下されましたことは、まことに恐れ多いことでございます。更に願う所は、ご来臨万福ならんことを。
 それでは、私が説法した時に、どのような法を説いたのか、試しに言ってみてください。もし言うことが出来れば、銀貨一万鋌を頂きましょう。もし言うことが出来なければ、長官はどうぞ銀貨をお収め下さい。」
 長官は、立ち上がって先師に答えました。「ただいま和尚様におかれましては、ご機嫌万福に存じ上げます。」
 先師は言いました、「それは私が先ほど申し上げたことです。どのように説法をお聞きになられましたか。」
 長官はためらいました。

 

《如浄はそうはしませんでした。そして、あなたは、さっきの私の説法をどんなふうに聞きましたか、と尋ねます。趙は、大変ありがたく聴いたと答えます。
 如浄は、それはなにより結構なことだったが、私が何をお話ししたのか、言ってみてほしい、もし言えたら布施をお受けしよう、言えなければ布施はお納め下さい、と重ねて訊ねます。口頭試問のようで、いささか失礼な話だという気がしますが、そういう意味のようです。
 次の趙の答えは、ここでは「ご機嫌万福」と訳していますが、『行持』によれば、「法候」の「候」は様子、「法」は僧に対する尊称であり、「動止」は動作として、如浄の挙措動作が立派だったと答えた、ということのようです。
 そこで如浄は、「それは私が先ほど申し上げたこと」だと言って(「挙し来る」を諸注はそう訳しています。「万福」という言葉のことを言っているのでしょうか。私は「行う」の意味にとって、「それは私の様子のことです」と考える方がいいような気がするのですが)、そうではなく、説法の中身をどう聴いたのかと訊ねているのだ、と問います。
 それが解ったなら、私が布施を受け取らないということが分かったはずなのだ、という気持ちでしょうか。
 残念ながら、趙には、その問いに答えるだけの力が無かったのでした。
 『行持』は、「仏法に深く参入していない提挙には、自信のある答えができるはずがない。…うろたえる外はなかったのである」と厳しく言います。しかし、一般人はその程度のものだと考えるべきで、「人を見て法を説け」ではありませんが、説法した側にも責任がありそうで、そこを分からせる、あるいは分かる範囲の説法にするという配慮が必要だったようにも思われます。
 布施を断ることは、それなりに意義のあることだと思われますが、善意の相手を傷つけかねない言葉で斥けたのでは、功罪半ばする、というの言い過ぎでしょうか。もちろん、趙にも、呼ぶ人を誤ったということはあります。
 ひょっとして、禅師は、この趙を、財を誇る見苦しい男として語っているのでしょうか。


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1 如浄~7

 又、諸方の雲水の人事(ニンジ)の産をうけず。
 趙提挙(チョウテイコ)は、嘉定聖主の胤孫(インソン)なり。知明州軍州事、管内(カンダイ)勧農使なり。先師を請して、州府につきて陞座(シンゾ)せしむるに、銀子(ギンス)一万鋌(ジョウ)を布施す。
 先師、陞座了に、提挙にむかふて謝していはく、「某甲(ソレガシ)例に依って出山して陞座す。正法眼蔵涅槃妙心を開演し、謹んで以て先公の冥府に薦福す。
 但し是の銀子、敢へて拝領せじ。僧家(ソウケ)、這般(シャハン)の物子(モッス)を要せず。千万賜恩、旧に依って拝還せん。」
 提挙いはく、「和尚、下官(アカン)忝く皇帝陛下の親族なるを以て、到る処に且つ貴なり、宝貝(ホウバイ)見ること多し。
 今 先父の冥福の日を以て、冥府に資せんと欲(オモ)ふ。和尚如何(イカガ)納めたまはざる。今日多幸、大慈(ダイズ)大悲をもて、少襯(ショウシン)を卒留すべし。」
 

【現代語訳】
 また、各地からやってきた行脚僧の手土産などは受け取りませんでした。
 趙長官は、宋の嘉定の皇帝(寧宗)の子孫です。明州の軍と州を治める地方長官であり、州内の農事を司る長官でもあります。長官は、先師如浄和尚を州の庁舎に招き、説法をお願いして、銀貨一万鋌を布施しました。
 先師は、説法が終わってから長官に感謝して言いました。「私は慣例に従って山門を出て説法にお伺いし、正法眼蔵涅槃妙心を説いて、謹んで亡き御尊父の冥福をお祈り致しました。
 しかしこの銀貨は、どうしても頂く訳にはまいりません。僧侶は、このような物を必要としないからです。この有り余るお志は、これまでのように謹んでお返し致します。」
 長官は言いました、「和尚様、この私は忝いことに皇帝陛下の親族なので、何処へ行きましても貴ばれて、財宝を頂くことが多いのです。
 今日は亡き父の冥福を祈る日なので、冥府の父を助けてあげたいのです。和尚様は何故お納め下さらないのでしょうか。今日は本当に幸せでございます。どうかお慈悲を以て、この少しばかりの施しをお納めください。」
 

《とりあえずは、奇特な善意の信者と清廉な僧侶の、気持ちのよい対話です。
 「陞座」は「請いを受けて、説法のために高座に陞る(のぼる)こと」(『行持』)だそうです。ここは、趙提挙が父の法要を営んで、如浄を招き、説法を聞き、銀一万鋌(その額がどれほどのものか解りませんが、大変なものであろうと想像されます)を布施として差し出した、という話のようです。
 清廉な如浄は、こういう話の型どおりと言っては変ですが、丁重にそれを辞退します。
 もちろん、趙はああそうですかと引っ込めたりはしません。自分にとってこの銀子はさほど大きな額ではなく、ささやかな気持ちにすぎないので、父の供養のためにぜひこの布施を受けていただきたい、という懇請は、慇懃であり説得力があります。
 こんなふうに言われれば、布施は六波羅蜜の第一に挙げられていることでもあり、現実的には、一度出したものを引っ込めるのは難しいものであることを慮ったりして、ここは「衆生利益のために」(第一章3節)と受け取っても、そんなに不思議はないところですが、…。》


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