しづかにおもふべし、一生いくばくにあらず。仏祖の語句、たとひ三々両々なりとも道得せんは、仏祖を道得せるならん。
 ゆゑはいかん、仏祖は身心一如なるがゆゑに、一句両句、みな仏祖のあたたかなる身心なり。
 かの身心、きたりてわが身心を道得す。正当(ショウトウ)道得時、これ道得きたりてわが身心を道取するなり。此生道取累生身(此の生に累生の身を道取す)なるべし。
 かるがゆゑに、ほとけとなり祖となるに、仏をこえ祖をこゆるなり。三々両々の行持の句、それかくのごとし。
 いたづらなる声色(ショウシキ)の名利に馳騁(チヘイ)することなかれ、馳騁せざれば仏祖単伝の行持なるべし。
 すすむらくは大隠小隠、一箇半箇なりとも、万事万縁をなげすてて、行持を仏祖に行持すべし。

 正法眼蔵 仏祖行持 第十六下

仁治三年 壬寅(ミズノエトラ)四月五日、観音導利興聖宝林寺に于(オ)いて書く。
同四年 癸卯
(ミズノトウ)正月十八日 書写、同三月八日 校点了。懐弉

 

【現代語訳】
 静かに考えてみなさい。人の一生はそれほど長くありませんが、仏祖の言葉を、たとえ二三句でも説き尽くすことが出来れば、それは仏祖を説き尽くすことになるのです。
 何故ならば、仏祖は身と心が一如なので、その一、二句は、皆仏祖の温かな身心だからです。
 その身心がやって来て、自分の身心を説き尽くすのです。その説き尽くす時には、仏祖の説法がやって来て、自分の身心を説くのです。今生に於いて累生の身を説くのです。
 それゆえに、仏となり祖師となるために、仏を越え祖師を越えていくのです。仏祖の二、三の行持の句とは、こういうものです。
 空しい俗世の名利のために走り回ってはいけません。走り回らなければ、仏祖が親しく相伝した行持なのです。
 皆に勧めたいことは、町中に隠れる賢者であれ、深山に隠れる賢人であれ、たとえ一人半人であろうとも、万事万縁を投げ捨てて、自らの行持を仏祖に倣って行持してほしいということです。
 

《さて、この長い巻の結びの言葉です。
 ここでは二つのことが説かれていると思われます。その一つは、仏祖の語句(それは行持と言ってもいいでしょう)は、そのほんの端々でも、その一つ一つがその仏祖そのものであるということ。それが可能であれば、それは何とも美しい姿です。
 腹の底から指先までが、ただ一色で、どこを切っても彼の姿がそのままにある、何をしても彼であり、何を言っても彼である、そういうあり方をしたいものだと、本当に思います。もちろん、どこを切っても守銭奴、どこを切っても無道、というのでは困りますが、…。我が家の庭に小さな紅梅の木がありますが、あるとき、この枝を切って切り口を見ると、その枝の芯まで赤いのに驚きました。
 ここまで語られてきた数々の仏祖たちのエピソード、その一つを自分のものにすることができれば、それはその仏祖をまるごと理解したことになる、…。
 二つ目は「かるがゆえに」以下で、そこに語られているのは、したがって、その仏祖の行持の一端を道取すれば、その仏祖を超えることになるのだ、ということであると思われます。
 その仏祖と同列、肩を並べる、というのではなく、「超える」であるところが不思議です。百メートルを9秒72で走れば、世界記録でボルトと並ぶことになるのですが、仏道では、ボルトを超したことになる、それはその仏祖を自分の「中に」宿すので、自分はそれより大きいからだ、というような理屈が考えられます。
 こんな素晴らしい励ましの言葉はないのではないでしょうか。

 

 次から「菩提薩埵四摂法」巻を読んでみます。》


                                行持 下 おわり。