『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

菩提薩埵四摂法

3 同事~5

 この四摂、おのおの四摂を具足せるがゆゑに、十六摂なるべし。

  正法眼蔵 菩提薩埵四摂法
  仁治 癸卯(ミズノトウ)端午日 入宋伝法沙門道元記

【現代語訳】
 この布施、愛語、利行、同事の
四摂法は、それぞれの中に四摂法を具えているので、十六摂法になります。
 

《さて最後の一行です。
 この布施、愛語、利行、同事は、それぞれにまた四摂法がある、と言います。諸注、布施にも愛語、利行、同事がある、愛語にも…というように解釈していますが、そこに更に布施を加えなければ、十六になりません。そこで、布施における布施、愛語、利行、同事がある、以下同じ、ということになりますが、すると布施における布施とか、愛語における愛語ということが生じます。これはどういうことか、…。
 私は逆に、この四つは結局同じことを言っているのであって、その現れ方が異なるだけではないかという気がするのですが、『文学』が「解説」において、「四摂の帰一する原動力になっている一摂がないはずがない」と考えるところから、次のように言っています。
 「四摂法の根本は布施であり、四摂法は布施徹底の方法と立場を究める考察ではないかと考えるようになっている。すなわち、布施を主題とし、愛語を布施の『言語的方法』と解し、利行をそれと相まつ布施の『行動的方法』と考え、同事をそういう布施実践の『立場』とするとき、人間の生き方の根本的な原理である布施の実現が可能になるのではなかろうか」。
 なるほどと思わされますが、しかし、それならなぜ禅師は十六に「分類」したのか、という疑問が残ります。
 例えば、布施における愛語と利行における愛語とはどのように異なるのか、そういう方向から考える方が禅師の思いに近いのではないか、という気がします。
 ちなみに、布施とは、その物本来の働きをさせることだ、というふうに考えてきました(第二章1節)が、そこで、そういう観点から発せられる「愛語」、優しい言葉もあれば、「利行」・博愛の精神(第五章1節)から発せられる「愛語」もある、と考えれば、一応言葉の上では、そう言えるかも知れないという気もします。
 しかし、そういうふうに区別することにどういう意味があるのか、それがまた分かりません。
 やはり、それよりもむしろ、私には、この四つは結局同じ事を言っていると考える方が納得できる気がします。その一つ、というのは、例えば世界を「ダイナミックな(存在するものがそれぞれの立場において活性化する動的な)」場(第三章2節)として把握せよ、というようなことではないか、そしてこの四つは、そこに至る方法論ではないかと考えてみるのですが、…。
 そうすると、その入り口は無数にありそうで、「十六摂法」とはそのことを言っているのではないか、…。

さて、次は「発菩提心」巻を読んでみます。》

菩提薩埵四摂法おわり。


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2 同事~4

 明主はあきらかなるがゆゑに人をいとはず、人かならず国をなし、明主をもとむるこころあれども、明主の明主たる道理をことごとくしることまれなるゆゑに、明主にいとはれずとのみよろこぶといへども、わが明主をいとはざるとしらず。
 このゆゑに、明主にも暗人にも、同事の道理あるがゆゑに、同事は薩埵の行願(ギョウガン)なり。
 ただまさに、やはらかなる容顔をもて一切にむかふべし。
 

【現代語訳】
 明主は賢明なので人を嫌いません。人は必ず国をつくり、明主を求める心があるのですが、明主が明主であることの道理を、すべての人が知っていることは希なので、明主に嫌われていないことだけを喜んで、自分が明主を嫌わないことを知らないのです。
 このように、明主にも道理に暗い人にも同事の道理があるのです。同事は菩薩の誓願なのです。
 ですから、ひたすら柔らかな容顔ですべての衆生に向き合いなさい。
 

《明主のもとに人は集まるのですが、多くの人は、その明主の明主たる所以を十分に理解するわけではなく、ただそこが居心地がよいと思うにすぎませんから、明主に接しても、自分のここを理解されたいと思うこともなく、ただ明主に疎まれないことを喜ぶことになります。
 そういう人は、実は自分がその明主を厭わしく思っていないということに気付かない、…。どうもよく分かりませんが、『文学』が「まず自分の中に明主を待ち望む心があるから、明主に受け入れられることを喜ぶ。道をさとる本質を持っているから道を求めるのと同じ」と注していて、そういうことかと思われます。
 このようにして、お互いが相手を求めようとすれば、つまり「事を同じく」しようとするならば、それこそは「薩埵の行願」であるのだと禅師は言います。
 「やはらかなる容顔をもて一切にむかふべし」は、「同事」の結びではなく、この巻全体、布施、愛語、利行、同事の結びかと思われます。》

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1 同事~3

 ひそかにしりぬ、海は海を辞せざるがゆゑに、海をなしおほきなることをなす。山は山を辞せざるがゆゑに、山をなしたかきことをなすなり。明主は人をいとはざるがゆゑに、その衆をなす。衆とは国なり。
 いはゆる明主とは、帝王をいふなるべし。帝王は人をいとはざるなり。人をいとはずといへども、賞罰なきにあらず。賞罰ありといへども、人をいとふことなし。
 むかしすなほなりしときは、国に賞罰なかりき。かのときの賞罰は、いまとひとしからざればなり。
 いまも賞をまたずして道をもとむる人もあるべきなり、愚夫の思慮のおよぶべきにあらず。
 

【現代語訳】
 ひそかに知るのです。海は海を拒まないから海となって大きくなり、山は山を拒まないから山となって高くなったのです。また、明主は人を嫌わないから、その下に衆が集まるのです。衆とは国のことです。
 いわゆる明主とは、帝王のことです。優れた帝王は人を嫌いません。人を嫌わないけれども、人に賞罰が無いわけではありません。賞罰はありますが、人を嫌うことはないのです。
 昔、人々が正直であった時代には、国に賞罰はありませんでした。その当時の賞罰は、今と同様ではなかったのです。
 今でも褒賞を望まずに道を求める人があってもよいのです。愚かな人には考えられないことでしょうが。
 

《「ひそかにしりぬ」は、多くの人は分かっていないようだが、というような気持ちでしょうか。
 「人をいとはざる」とは、人と「事を同じくする」ことによって、でしょうか、それによってその人のもとには多くの人が集まってくる、桃李もの言わざれども下自づから蹊をなす、というところでしょう。「衆とは国なり」とは、けだし名言で、今の政治家に聞かせたい言葉です。
 「明主とは、帝王をいふ」というのは、逆のような気もしますが、まあそういうことでしょうか。
 いきなり賞罰の話になってちょっと戸惑いますが、人が集まれば社会ができ、すると自づ利害が生じますから、賞罰が必要となってくる、そのように明主を慕ってやってきた人でも、道を求める人ばかりではないでしょうから、やむを得ません。
 賞罰はあっても、明主は、罰を与えからといってその人を厭うわけではない、罪を憎んで人を憎まず、したがって苛烈な罰はなかったということでしょうが、このあたり、社会が複雑になって、賞罰が鮮明になり、時に苛烈な罰も必要になって来た当代に対する批判の気持ちが漏れ出したのか、少し話がずれてきた感があります。
 そういう中にあって、そういう賞罰に関わりなく、純粋に道を求める人があってもいいのだ、あなたがたはそういう人であってほしい、と禅師は説きます。》


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2 同事~2

たとへば、事(ジ)といふは、儀なり、威なり、態なり。
 他をして自に同ぜしめてのちに、自をして他に同ぜしむる道理あるべし。自他はときにしたがふて無窮なり。
 管子に云(イワ)く、
 海は水を辞せず、故に能く其の大なることを成(ナ)す。
 山は土を辞せず、故に能く其の高きことを成す。
 明主は人を厭はず、故に能く其の衆を成す。
 しるべし、海の水を辞せざるは同事なり。さらにしるべし、水の海を辞せざる徳も具足せるなり。
 このゆゑに、よく水あつまりて海となり、土かさなりて山となるなり。
 

【現代語訳】
 たとえば、同事(事を同じくす)の「事」とは、姿であり、威儀であり、態度のことです。
 他を自分に同ぜしめて後に、自分を他に同ぜしめるという道理があります。自他の関係は、時に応じて無窮なのです。
 管子に言います、
 「海は水を拒まないので大海となる。
  山は土を拒まないので高山となる。
  明主(優れた君主)は人を嫌わないので衆が集まる。」と。
  知ることです、海が水を拒まないのは同事なのです。さらに、水は海を拒まない徳も具えていることを知りなさい。
 このために、よく水が集まって海となり、また土が重なって山となったのです。
 

《「事」とは、姿、威儀、態度を言うのだ、ということは、相手のそれを自分の中に取り込むことだ、ということになりましょうか。
 それはつまり、相手を師として、その師の姿、威儀、態度を自分のものとするということになりそうです。しかるのちに(『全訳注』はここを「それは同時に」と訳していますが、原文では「のちに」と書かれています)、そうして成った自分を、今度は弟子に移し込んでいく、そういう手順があるのだと説きます。そういう関係、手順は時の流れとともに永遠に続く事柄であろう、…。
 それは海が水を飲み込んで大きくなり、山が土を集めて高くなる、…? 海の方は分かりますが、山が土を「辞せず」とはどういうことを言うのでしょうか。まさか地形の褶曲運動や火山の成層活動を知っていたということはないでしょうが、と言って、単なる譬喩というわけでもないようです。
 ともあれ、話の意図は明瞭で、他を自に取り込み、また他を自に同ぜしめて、「人」は次第に大きくなって行くのだ、ということでしょう。》

1 同事~1

 同事といふは、不違なり。自にも不違なり、他にも不違なり。たとへば、人間の如来は人間に同ぜるがごとし。
 人界(ニンガイ)に同ずるをもてしりぬ、同余界なるべし。同事をしるとき、自他一如なり。
 かの琴詩酒は、人をともとし、天をともとし、神をともとす。人は琴詩酒をともとす。
 琴詩酒は琴詩酒をともとし、人は人をともとし、天は天をともとし、神はかみをともとすることわりあり。これ同事の習学なり。
 

【現代語訳】
 同事(事を同じくす)とは、違わないことです。自分にも違わず、他にも違わないことです。たとえば、人間の如来である釈尊は、世の人間と同化していたように、です。
 如来が、人間の世界に同化したことで分かることは、如来は他の世界にも同化したということです。同事を知る時、自他は一如なのです。
 かの琴や詩や酒は、人を友とし、天を友とし、神を友としています。また人は、琴や詩や酒を友としています。
 さらに琴や詩や酒は、琴や詩や酒を友とし、人は人を友とし、天は天を友とし、神は神を友とするという道理があります。これが同事を学ぶことです。 
 

《ここまで布施、愛語、利行は、いずれも、人が相手に向かってそのことを具体的にしなければならない、という話でしたが、ここはそういう具体的なことをする、ということではないようです。
 相手に同調する、というとちょっと違いますが、ともかく主体が相手にあって、こちらはそれに合わせていく、そういうことのように思われます。
 如来が人間界に現れるとき、人間の姿をしているように、自分から相手と「一如」となる、…。
 「琴詩酒」の話は、なんともくつろいだ例えで、禅師の言葉とは思えないような気がしますが、『文学』が白居易の詩『北窓三友の詩』を典拠として挙げて、「琴詩酒は、いずれも鬼神の心をも動かす徳を持っている。琴詩酒の方が人、天、神に友となる資格をもっているから、友となれる」と注しています。
 全く異なったものが、ということは天人界人間界の一切のものが、一堂に会し一つになってあい楽しむ、禅師は、世界をそういうものとしてイメージしていた、ということではないでしょうか。
 ちなみに、『北窓三友の詩』は三十四句からなる五言古詩で、その初めの部分に「琴やみてすなわち酒を挙げ 酒やみてすなわち詩を吟ず 三友たがいに相引き 循環して止む時無し」の句があります。


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