むかしの人、ひとたび沐浴するに、みたびかみをゆひ、ひとたび飡食(サンジキ)するに、みたびはきいだせしは、ひとへに他を利せしこころなり。ひとのくにの民なれば、をしへざらんとにはあらざりき。
しかあれば、怨親ひとしく利すべし、自他おなじく利するなり。
もしこのこころをうれば、草木風水にも利行のおのれづから不退不転なる道理、まさに利行せらるるなり。ひとへに愚をすくはんといとなむなり。
【現代語訳】
昔、周公という人は、来客があれば、一度の入浴に三度でも髪を結い直して迎え、一度の食事に三度でも吐き出して応対したといわれるのは、ひたすら他を利益しようという心からでした。地方の国の民だから教えないというのではなかったのです。
ですから、憎い人でも親しい人でも区別せずに、等しく利益しなさい。そうすれば自他同じく利益があるのです。
もしこの平等の心を得れば、草木や風水にも、利行の自ずから不退転に行われている道理があるように、まさに利行されるのです。ですから、ひたすら衆生の愚を救おうと営みなさい。
《周公のエピソードは『史記』にある話のようで、「封国魯の国へ子の伯禽をつかわす時にいましめて言った言葉」(『文学』)だそうです。
ここでも「怨親ひとしく利すべし」が肝要のところで、次の「自他」は自分と相手という二人の関係ではなくて、「他」は自分以外のすべてを指すと考えるところなのでしょう。
その事が解れば「草木風水にも利行のおのれづから不退不転なる道理、まさに利行せらるるなり」といいます。解りにくいのですが、『全訳注』が「草や木や風や水にまで、利行がおのずから及ぶというものであって、それこそまさに利行というものである」と訳しています。
一つの利行によって幸せになるのは人間だけではないようです。
先に、布施の話の中で、「はなを風にまかせ、鳥をときにまかするも、布施の功業なるべし」(第二章4節)とありましたが、布施が鳥や花に及ぶように、利行も草木風水に及ぶし、また利行を返しても来る、…。
最後の「ひとへに愚をすくはんといとなむなり」を『文学』が、「ただただ道理に暗い愚かさを正そうと、努めるべきである」と言います。「愚」は「利行のおのれづから不退不転なる道理」を体得していないこと、でしょうか、そのことさえ解れば、まさに「おのれづから」働いていくのだ、と言っているようです。
やはり世界は、それ自体が動的なもののようです。》