『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

発菩提心

2 守護菩提心

 魔は是れ天竺の語、秦には能く命を奪ふ者と言ふ。死魔は実に能く命を奪ふと雖も、餘(ヨ)の者もまた能く奪命(ダツミョウ)の因縁を作(ナ)し、また智慧の命を奪ふ、是の故に殺者(セッシャ)と名づく。
 問うて曰く、「一の五衆魔に三種の魔を摂す、何を以ての故に、別して四と説くや。」
 答えて曰く、「実に是れ一魔なり、其の義を分別するが故に四有り。」
 上来これ龍樹祖師の施設なり、行者しりて勤学(ゴンガク)すべし。いたづらに魔嬈(マニョウ)をかうぶりて菩提心を退転せざれ、これ守護菩提心なり。

 正法眼蔵 発菩提心 第四

爾時
(コノトキ)寛元二年甲辰(キノエタツ)二月十四日、越州吉田県 吉峰精舎(キッポウショウジャ)に在って衆(シュ)に示す。
建長七年乙卯
(キノトウ)四月九日、御草案を以て之を書写す。懐弉

【現代語訳】
 魔は「マーラ」というインドの言葉で、中国では「命を奪う者」と言う。死魔は実際に命を奪うけれども、他の魔も命を奪う因縁となり、また智慧の命を奪うものである。この故に殺者と呼んでいる。
 尋ねて言う、「五衆魔一つの中に三種の魔を含んでいるが、何故魔を四種類に分けて説くのか。」
 答えて言う、「これらの魔は、実際には一つの魔であるが、その内容を分けて説けば四種類になるのである。」
 これまで述べてきたことは龍樹祖師の教えです。修行者はよく学んで修行に勤めなさい。徒に魔に惑わされて菩提心を退いてはいけません。これが菩提心を守ることです。
 

《問答の終わりの「故に四有り。」までが前節からの『大智度論』の引用です。
 最後は禅師の言葉です。

 このように「魔」を何種類かに分類して示すことで、人間はそのように無数の煩悩に取り巻かれて生きているので、菩提心を起こした後、その時その時の自分を振り返って当てはめて、こうした「魔」に心を動かして停滞していはしないかと、絶えず自らを顧みよ、ということでしょうか。

私としては、この巻では、「自未得度先度他」ということが一つの行であって、自分が「度」しようと考えるよりも純粋な行いができて、しかも継続しやすい、ということではないか、ということに思い至ったことが、大きな発見でした。
 そして、それと坐禅という動かない行とがどういう関係になるのか、という問題を発見したことも。

次は、「八大人覚」巻を読んでみます。》

 「発菩提心」おわり。


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1 魔の分類

 魔に四種(シシュ)あり、一に煩悩魔、二に五衆魔(ゴジュマ)、三に死魔、四に天子魔なり。
 煩悩魔とは、所謂百八煩悩等にして、分別すれば八万四千の諸煩悩なり。
 五衆魔とは、是れ煩悩和合の因縁なり。
 是の身は、四大(シダイ)及び四大の造色(ゾウシキ)、眼根(ゲンコン) 等の色(シキ)を得たり。是を色衆(シキシュ)と名づく。
 百八煩悩等の諸受和合す、名づけて受衆(ジュシュ)と為す。
 大小無量の所有(ショウ)の想、分別和合す、名づけて想衆(ソウシュ)と為す。
 好醜の心発(オコ)るに因って、能く貪欲瞋恚(トンヨクシンイ)等の心を起こす。相応不相応の法を名づけて行衆(ギョウシュ)と為す。
 六情六塵和合するが故に六識を生ず、是の六識和合して無量無辺の心あり、是を識衆(シキシュ)と名づく。
 死魔とは無常の因縁の故に、五衆を相続する寿命を破り、三法の識熱寿を尽離(ジンリ)するが故に、名づけて死魔と為す。
 天子魔とは、欲界の主なり。深く世楽(セラク)に著(ジャク)し、有所得(ウショトク)を用いるが故に邪見を生じ、一切賢聖の涅槃の道法を憎嫉す、是を天子魔と名づく。
 

【現代語訳】
 魔には四種類がある、一は煩悩魔、二は五衆魔、三は死魔、四は天子魔である。
 煩悩魔とは、いわゆる百八の煩悩などによる魔であり、更に分ければ八万四千のあらゆる煩悩のことである。
 五衆魔とは、色(肉体)受(感受)想(心象)行(意思)識(認識)という人の五つの要素によって起こる魔である。これらが煩悩の原因となるのである。
 この身体は、四大(万物の四元素である地水火風)や四大によって作り出された色(肉体)、そして五根(眼耳鼻舌身)の色(肉体)により成り立っている。これを色衆(色の集まり)と呼ぶ。
 人は百八の煩悩など様々な感受をする。これを受衆(感受の集まり)と呼ぶ。
 人は大小様々な思いを抱き、様々な思量分別をする。これを想衆(考え思うことの集まり)と呼ぶ。
 人は好悪の心によって貪欲や怒りなどの心を起こす。このような心を起こしたり起こさなかったりする様子を行衆(意思の集まり)と呼ぶ。
 人は六情(眼耳鼻舌身意の六根)六塵(六根によって感受される色声香味触法の六境)によって六識(六境を認識する働き)を生じる。そしてこの六識によって無量の心を起こす。これを識衆(認識の集まり)と呼ぶ。
 死魔とは、無常(死)の原因となる魔である。五衆(色受想行識)を保つ寿命を破り、仏の三法(教え、修行、悟り)の心と身体と寿命を奪うので死魔と呼ぶ。
 天子魔とは、他化自在天の魔王であり欲界(欲望の世界)の主である。深く世俗の欲楽に執着し、利益を求める故に邪まな考えを起こし、全ての賢人聖人の悟りの道法を憎み妬むのである。これを天子魔と呼ぶ。
 

《最後に、そのように人間を惑わして発菩提心を妨げる「魔」の種類についての話です。この部分、原文は漢文で、『大智度論』という書からそのまま引かれているのだそうです。
 さて、四つの「魔」が挙げられますが、それらの関係がよく分かりません。
 「五衆魔」は「般若心経」に言う「色受想行識」ですが、これが前の「煩悩」の「和合の因縁」であるとされます。これを『提唱』は「(煩悩が)できあがるところの直接・間接の原因」であると解しています(ここの訳もそういう考え方のようです)が、『全訳注』は「煩悩が結合してなったもの」としていて、原因と結果が逆になっているように見えます。
 それも分からないことですが、また、そのように原因と結果であるものを、二つの種類としてあげるのはいかがなものかと、これも不審です。
 また、後の「天子魔」は「欲界の主」とされますが、それは「煩悩」とどう異なるのか、あるいは「貪欲」を含むとする「行衆」とどう異なるのか、…。
 「死魔」は、要するに死のことだと思われますが、そうだとすると、他の三つが人の内部にあるもの、ないし内部に生じるものであるのとは異なって、人の外部に客観的にあるもので、これだけは全く異質なものだということになります。
 概して、この書では、このように分類列挙する時、その分類の基準は何なのかということが明解でないように思われます。
 いえ、もちろん基準はきちんと考えられているのでしょうが、それが私などには、読み取れません。

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2 魔説・外道の説

あるいは天魔波旬等、行者をさまたげんがために、仏形(ブツギョウ)に化(ケ)し、父母(ブモ)師匠、乃至親族諸天等のかたちを現じて、きたりちかづきて、菩薩にむかひてこしらへすすめていはく、
「仏道長遠(チョウオン)久受(クジュ)諸苦もともうれふべし。しかじ、まづわれ生死を解脱し、のちに衆生をわたさんには。」
 行者このかたらひをききて、菩提心を退し、菩薩の行を退す。
 まさにしるべし、かくのごとくの説はすなはちこれ魔説なり。菩薩しりてしたがふことなかれ。もはら自未得度先度他の行願を退転せざるべし。
 自未得度先度他の行願にそむかんがごときは、これ魔説としるべし、外道説(ゲドウセツ)としるべし、悪友説としるべし。さらにしたがふことなかれ。
 

【現代語訳】
 或いは天界の悪魔などが、修行者を邪魔するために仏の姿に化けたり、父母や師匠、親族、諸天などの姿で現れて、菩薩を誘惑して言うには、
「仏道を成就する道は果てしなく遠く、久しく多くの苦を受けることは最も憂うべき事である。それなら先ず自分が生死輪廻を解脱して、その後に衆生(人々)を渡すに越したことはあるまい。」と。
 修行者は、この誘いを聞いて菩提心を退き、菩薩の行を退いてしまうのです。まさにこのような説は魔説であることを知りなさい。この魔説を菩薩は知って、それに従ってはいけません。そして専ら自未得度先度他(自らが悟りの浄土へ渡る前に、先ず他を渡す)の誓願を退かないようにしなさい。
 この自未得度先度他の行願に背くようであれば、魔説であると知りなさい。外道の説であると知り、悪友の説であると知って、決して従ってはいけません。
 

《『ファウスト』や『杜子春』が思い出される話です。
 ファウストは世界のすべてを知りたいという欲求に従ってメフィストフェレスの誘いを受け入れて、破綻していくのですが、グレートフェンの愛によって救済されます(実はあまりきちんと読んでいないのですが、およそそういうことだと思います)。
 杜子春は母の名を呼んだことによって現世に帰され、穏やかな後半生を送りました。
 西洋個人主義が流布して以来、自己の素直な心情こそが、人間の普遍的価値であると考えられている現代の感覚から見ると、ファウストの探究心という欲求も、また杜子春の華やかな生活や仙人生活への欲求も、そしてここの「天魔波旬」の諫めも、人の気持ちとしては至って自然で、「人間らしい心情」として、強く肯定されるものです。
 しかし、禅師は、そうした誘いは「こしらへすすめ」たものであって、それを断固拒絶せよと言います。そして「自未得度先度他」の行においてのみ、人は初めて真実の世界に入ることができるのだと主張します。あるいは、杜子春にとっての母親への孝心や、ファウストのグレートフェンへの恋は、自未得度先度他の意味を持ったのだと言えるのかも知れません。
 自分の求めようとするものにこだわれば、つまり自分の欲求(たとえそれが真実を求めたいという欲求であっても)にこだわれば、その欲求は限りのないものです。ファウストがそうであったように、杜子春も仮に仙人の下っ端になったとすれば、きっとさらに上を目指そうとしたであろう、というような意味ですが、そういう際限のない世界には、真実はないのであって、自分の欲求を断ち切ったところが「自未得度先度他」の行の世界だということなのかな、と思ってみます。》


1 菩薩

 菩薩の初心のとき、菩提心を退転すること、おほくは正師(ショウシ)にあはざるによる。
 正師にあはざれば正法をきかず、正法をきかざればおそらくは因果を撥無(ハツム)し、解脱を撥無し、三宝(サンボウ)を撥無し、三世(サンゼ)等の諸法を撥無す。
 いたづらに現在の五欲に貪著して、前途菩提の功徳を失す。
 

【現代語訳】
 菩薩(仏道に発心した者)が初心の時に菩提心を退くことは、その多くが正師(正法の師)に会わないことに因ります。
 正師に会わなければ正法を聞くことがありません。正法を聞かなければ、おそらくは因果(原因と結果)を無視し、解脱(煩悩からの離脱)を無視し、三宝(仏と法と僧)を無視し、三世(過去現在未来)など、あらゆるものを無視するようになるでしょう。
 そして徒に現在の五欲(財欲、色欲、食欲、名誉欲、睡眠欲など)を貪って、将来の菩提(悟り)の功徳を失ってしまうのです。
 

《菩薩に「初心」者がいるというのは、普通私たちが考える「菩薩」とはずいぶん違うイメージで驚きますが、しかし、先に、菩提心を起こした者は菩薩であって、仏でも声聞や辟支仏でもないのだ、という話があった(第七章1節)のことを思えば、菩薩というのは、一般に考えられているような仏様の中の一種ではなくて、仏道にある人間の一種を指すのだということですから、当然とも言えます。
 さて、三日坊主というのは、なぜ「坊主」なのかと思っていましたが、こういうところからなのでしょうか、菩薩といえども「菩提心を退転する」ことがある、ということになります。「退転」しては(正師に逢って)また復帰し、さらにまた、という弁道修行を経て菩薩道を極めていく、ということのようで、菩薩は、まさしく人であるわけです。
 「禁煙なんて何でもないことだ、俺は何度もやったことがある」という戯れ言葉がありますが、そういったところです。そういえば、昔、「前科者」という題の一コマ漫画で、切腹の縫合跡が何本もある侍を描いたものがあって、一人で大笑いをしたものです。
 閑話休題。
 菩提心を起こす人はたくさんいるけれども、それを長く保ち続けられる人は、残念ながら多くない、禅師でさえもそのことを意識していなければならないと思うほどに、危険な陥穽であるのです。
 その時それに気づかせてくれるは、「正師」だと言います。「正師」は、弟子が得度したことを認定する役割として、その重要性が強調されていました(今、それがどこに書かれてあったかと、読み返してみますが、見あたりません)が、それともに、その道からそれようとする者を引きとどめる役割も担うのです。》



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熟せざるもの三種

 仏の言(ノタマワ)はく、
「云何(イカン)が菩薩は一事を守護せん。謂(イハ)く、菩提心なり。菩薩摩訶薩は、常に勤めて是の菩提心を守護すること、猶(ナオ)世人の一子を守護するが如し。亦(マタ)瞎者(カッシャ)の餘の一目(イチモク)を護るが如し。曠野を行くに、導者を守護するが如し。菩薩の菩提心を守護することも、亦復(マタ)(カク)の如し。
 是の如く菩提心を護るに因るが故に、阿耨多羅三藐三菩提を得。阿耨多羅三藐三菩提を得るに因るが故に、常楽我浄具足して有り。即ち是れ無上大般涅槃(ダイハツネハン)なり。是の故に、菩薩は一法を守護すべし。」
 菩提心をまぼらんこと、仏語あきらかにかくのごとし。守護して退転なからしむるゆへは、世間の常法にいはく、「たとひ生ずれども熟せざるもの三種あり。いはく魚子(ギョシ)、菴羅果(アンカラ)、発心菩薩なり。」
 おほよそ退失のものおほきがゆへに、われも退失とならんことを、かねてよりおそるるなり。このゆへに菩提心を守護するなり。
 

【現代語訳】
 仏(釈尊)の言われることには、
「菩薩(悟りを求め衆生を利益する者)の守るべき一事とは何であるか。それは菩提心である。菩薩が常に努めて菩提心を守る様子は、世の人が我が子を守る事に似、また片目を失った者がもう一つの目を守る事に似、広い原野を行く者が案内人を守る事に似ている。菩薩が菩提心を守ることも、これと同様である。
 このように菩提心を守る事によって阿耨多羅三藐三菩提(仏の無上の悟り)を得るのであり、阿耨多羅三藐三菩提を得ることによって常楽我浄(悟りの四つの功徳)が具わるのである。これが最上の涅槃(煩悩を滅した無上の悟り)である。このために菩薩は菩提心の一法を守りなさい。」と。
 このように、菩提心を守るべき事は仏の言葉に明らかです。菩提心を守って退かない理由は、世間で広く言われているように、「たとえ生まれても熟さないものが三種ある。それは魚の卵、マンゴーの果実、発心の菩薩である。」という通りです。
 およそ菩提心は退いて失う者が多いので、私も失うことを以前から恐れているのです。そのために菩提心を守っているのです。
 

《自分のために復習しますと、菩薩というのは、如来の次の位の仏で、自ら菩提(悟り)を求める一方で、衆生を救済して真実の世界(彼岸)に導く人です。
 そして、その二つは別々のことではなくて、実は、その衆生を救済して真実の世界(彼岸)に導くことが、そのまま菩提(悟り)を求める道となる、ということのようです。
 ですから、菩薩は、「菩提心」という「一事を守護」しなければならない、と仏が説いている、といいます。
 そういう活動において、最高の智を獲得し、真実の世界に赴くことができる、…。
 あくまでも実践哲学、行動哲学であって、決して教典を学ぶことによって悟るのではありません。
 しかし、そのことと、坐禅をすることとは、どういう関係になるのでしょうか。坐禅をすることと、「自未得度先度他」との関係は、どういうことになるのでしょうか。
 後段は禅師の解説ですが、この書の中では、大変珍しい一節です。
 その一つは、「世間の常法」が挙げられていることです。
 白河法皇の「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」(『平家物語』巻一・第八句)が思い出される俗諺です(実は私はこれを「わが心にかなわぬもの三つ、賀茂河の水、双六の賽、山法師」と記憶していたので、そんな気がするのでしょう)が、こちらはいかにも俗諺らしく皮肉っぽく、こういうことを「孤高の人」とも言われる禅師が口にするというのは、ちょっと意外です。
 こういう皮肉(揶揄といってもよさそうです)を甘んじて認め、自らへの戒めとしている、というのは、禅師の謙虚さであると言ってもいいでしょう。
 もう一つは禅師が現在の自分の心境を語っている、という点です。禅師は、この書においてもっぱら自分の哲学、考えを語っていますが、私は今こういうことを心がけているというような、実践的な生の心境を語ることは多くありません。
 そういう点で、この一節は、禅師の新たな一面が見えているように思います。》


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