『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

発菩提心

2 弥勒菩薩

 しかあればすなはち、たとひ在家にもあれ、たとひ出家にもあれ、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、苦にありといふとも、楽にありといふとも、はやく自未得度先度他の心をおこすべし。
 衆生界は有辺(ウヘン)無辺にあらざれども先度一切衆生の心をおこすなり。これすなはち発菩提心なり。
 一生補処菩薩、まさに閻浮提(エンフダイ)にくだらむとするとき、覩史多天(トシタテン)の諸天のために、最後の教えをほどこすにいはく、「菩提心は是(コレ)法明門(ホウミョウモン)なり、三宝を断ぜざるが故に。」
 あきらかにしりぬ、三宝の不断は菩提心のちからなりといふことを。菩提心をおこしてのち、かたく守護し、退転なかるべし。
 

【現代語訳】
 ですから、たとえ在家であれ、たとえ出家であれ、或いは天上界の人であれ、或いは人間界の人であれ、苦にあっても、楽にあっても、早く自未得度先度他の心を起こしなさい。
 衆生の世界は有限でも無限でもありませんが、先度一切衆生(先ず全ての衆生を渡す)の心を起こすのです。これが発菩提心なのです。
 一生補処菩薩(弥勒菩薩)が閻浮提(人間の住む地域)に下りようとする時に、覩史多天の諸天衆のために最後の教えを与えて言うには、「菩提心は法を明らめ聖道に入る門である。それは三宝(仏と法と僧)を断絶させないからである。」と。
 これにより、三宝を断絶させないことは菩提心の力であることが明らかに知られます。菩提心を起こした後は、それを固く守って退いてはいけません。
 

《初めの「しかあれば」は、前節前半のこと、「禅苑清規」にも書いてあるし、「西天二十八祖、唐土六祖等、および諸大祖師」も菩薩行を行ったのであるのだから、ということでしょうか。
 次の「衆生界は有辺無辺にあらざれども」は、どうしてこういう説明が必要なのか、よく分かりません。
 まず、「有辺無辺」は、「辺」ですから、平面的領域を示しているのだと考えて、「衆生界」と、「度」るべき真実界(彼岸?)との境界と考え、そこに目に見える境界があるわけではないけれども、というような意味かと思われます。
 次に、「起こすなり」は、前の「おこすべし」と同様でしょうか。
 仮に「有辺」、境界が目に見える形で存在するなら、「先度一切衆生の心」を起こすのも容易かも知れませんが、「自未得度」ですから境界が自分には見えているはずはなく、しかしそれでも、「先度一切衆生」を願い、努めることが必要だ、というようなことになるでしょうか。
 「一生補処菩薩」は、ここでは弥勒菩薩となっていますが、つまり「菩薩としての修行が充足して、次の生涯において仏となり仏位を補うべき最高位にある菩薩」(『読解』)で、「覩史多天」はその菩薩の住処なのだそうです。》


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 禅苑清規(ゼンネンシンギ)一百二十問に云(イハ)く、「菩提心を発悟(ホツゴ)せりや否や。」
 あきらかにしるべし、仏祖の学道、かならず菩提心を発悟するをさきとせりといふこと、これすなはち仏祖の常法なり。
 発悟すといふは、暁了(ギョウリョウ)なり。これ大覚にはあらず。たとひ十地(ジュウジ)を頓証せるも、なほこれ菩薩なり。
 西天二十八祖、唐土六祖等、および諸大祖師はこれ菩薩なり。ほとけにあらず。声聞(ショウモン)、辟支仏(ビャクシブツ)等にあらず。
 いまのよにある参学のともがら菩薩なり。声聞にあらずといふこと、あきらめしれるともがら一人もなし。
 ただみだりに衲僧(ノウソウ)、衲子(ノッス)と自称して、その真実をしらざるによりて、みだりがはしくせり。あはれむべし、澆季(ギョウキ)祖道廃せることを。
 

【現代語訳】
 禅苑清規(禅道場の規則)の一百二十問には、「菩提心を発悟しているであろうか。」とあります。
 この言葉から、仏祖(仏と祖師)の道を学ぶには、必ず菩提心を発悟することが先であることを明らかに知ることでしょう。これは仏祖の不変の法なのです。
 発悟とは悟ることです。これは大覚(大悟)ではありません。たとえ菩薩修行の十地を直ちに悟っても、まだ菩薩なのです。
 インドの二十八代の祖師や中国の六代の祖師など、諸々の大祖師は菩薩であり仏ではありません。声聞(仏の説法を聞いて悟る者)や辟支仏(縁起の法を観じて悟る者)などでもありません。
 今の世で、仏道を学んでいる仲間は菩薩であり、声聞でないことを明らかに知っている者は一人もいません。
 ただ妄りに衲僧、衲子(禅僧)と自称して、その真実を知らずにいい加減にしているのです。末の世で仏祖の道が廃れてしまったことを悲しみなさい。
 

《ここでは「発悟すといふは、暁了なり。これ大覚にはあらず」が、まず注意を引きます。
 「暁了」の「暁」は、さとる、あきらか、ですから、はっきりと知る、というような意味でしょうか。「あきらかにすること」(『全訳注』)、「仏道を正確に知ること」(『読解』)と訳されています。
 ここに語られる、「発悟」は「大覚」ではないというのは、普通なら当たり前のことだろうと思われるのですが、禅師は先に「辮道話」で「もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる」(第四章3節)と言っていて、そのことが印象的であっただけに、このこととどういうふうに整合性を取るのかということが気になります。
 そしてその「発悟」した人は、まだ仏とは言えず、といって声聞や辟支仏でもないのだが、そのことを当の「いまのよにある参学のともがら」は分かっていない、と言うのですが、これにはどういう意味があるのでしょうか。またその自分を「衲僧、衲子と自称して、その真実をしらざる」と言うのですが、どうもその意味がよく分かりません。
 ひょっとして、ここも、当時の比叡山の学僧をそういう人たちだとみなして、彼らが、優れた指導者のないままに、菩薩と声聞・辟支仏の区別もつかないままに、ただ闇雲に本を学んでばかりいて、坐ることをしないと、やや同情的に批判しているということなのでしょうか。》


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2 久遠の寿量

 われらが寿行生滅、刹那流転、捷疾なることかくのごとし。念々のあひだ、行者この道理をわするることなかれ。
 この刹那生滅、流転捷疾にありながら、もし自未得度先度他の一念をおこすごときは、久遠の寿量、たちまちに現在前するなり。
 三世十(サンゼジッポウ)の諸仏、ならびに七仏世尊、および西天(サイテン)二十八祖、東地六祖、乃至(ナイシ)伝正法眼蔵涅槃妙心の祖師、みなともに菩提心を保任せり。いまだ菩提心をおこさざるは祖師にあらず。
 

【現代語訳】
 我々の寿命の生滅が刹那に移り変わって速いことはこの通りです。日常に修行者はこの道理を忘れてはいけません。
 このように刹那に生滅して速やかに移り変わる寿命でありながら、もし自未得度先度他(自らが悟りの浄土へ渡る前に、先ず他を渡す)の一念を起こせば、久遠の寿命が忽ち現れるのです。
 三世十方(過去現在未来のあらゆる所)の諸仏、過去に出現した七人の仏、インドの二十八代の祖師、中国の六代の祖師など、正法眼蔵涅槃妙心(仏法の真髄、悟りの心)を伝えた祖師は、皆すべて菩提心を護持していました。菩提心を起こしていない者は祖師ではないのです。
 

《どうも一番聞きたいところを話してもらえていないような気がします。
 この節では、「自未得度先度他の一念をおこすごときは、久遠の寿量、たちまちに現在前するなり」のところで、こういうことが、いったいどういう手順を経て起こるのか、つまり、自未得度先度他の一念」を起こすと、それまでは「刹那生滅」であったものが、なぜ「久遠の寿量、たちまちに現在前する」ということになるのか、ということこそ、聞きたいところです。
 しかし、禅師は、そうなのだと断定するだけです。もちろん禅師の言葉ですから、そこにはったりや偽りなどあろうはずもありませんから、ただ信じればよいのでしょうが、私は事実そういうことが起こる、ということよりも、どういうふうにしてそういうことが起こるのか、そこにはどういう論理があるのか、ということの方に関心があるのです。
 いや、そういう、理屈中心の関心の持ち方の者の「自未得度先度他」は、真正のそれとは言えないので、そういう者には、そういうことは起こらず、結局理解し得ないのだ、ということなのかもしれません。
 『提唱』が「他人様のために一所懸命働きましょうという程度の気持ちを起こすならば、その瞬間からわれわれの人生というものは絶対の価値を持ってくる、永遠の意味を持ってくる」ということなのだと言います。
 これとても、そうだと信ぜよということで、しかし、ただ信ぜよと言われてもなあ、という気もします。
 それに、本当にそういうことが起こるなら、そこには当然何らかの経緯があるはずで、語ろうと思って語れないものではないような気がするのですが、…。
 いやいや、やはり、ただ信じるしかないというところに追いつめられて、例えば肘を断ってでもというように、命を賭して必死に解を求めようとする者にしか、天啓は降りないのかもしれません。



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1 四の善き謝夫

 衆生の寿行(ジュギョウ)、生滅(ショウメツ)してとどまらず、すみやかなること。
 世尊在世に一比丘あり。仏の所に来詣(キタ)りて、双(フタ)つの足を頂礼(チョウライ)し、却って一面に住して、世尊に白(モウ)して言(モウ)さく。
「衆生の寿行、云何(イカン)が速疾(スミヤカ)に生滅するや。」
 仏の言(ノタマ)はく、「我れ能く宣説(センゼツ)するも、汝知ること能はじ。」
 比丘の言(モウ)さく、「頗(スコブ)る譬喩(ヒユ)の能く顕示しつべき有りや不(イナ)や。」
 仏の言(ノタマ)はく、「有り。今汝が為に説かん。(タト)へば、四(ヨタリ)の善き謝夫の各(オノオノ)弓箭(ユミヤ)を執(ト)り、相背(アイソム)きて攢(アツマ)り立ちて四方を射んと欲(セ)んに、一(ヒトリ)の捷(ハヤ)き夫(フ)ありて来りて之に語(ツ)げて、汝等今、一時に箭(ヤ)を放つべし、我れ能く遍く接(ト)りて、俱(トモ)に堕せざらしめんと曰(イハ)んが如し。
 意(ココロ)に於いて云何(イカン)、此れは捷疾(ショウシツ)なりや不(イナ)や。」
 比丘、仏に白さく、「甚だ疾し、世尊。」
 仏の言はく、「彼の人の捷疾なること、地行夜叉(ジギョウヤシャ)及ばず。地行夜叉の捷疾なること、空行夜叉に及ばず。空行夜叉の捷疾なること、四天王天の捷疾なるに及ばず。の天の捷疾なること、日月(ニチガツ)二輪の捷疾なるに及ばず。日月二輪の捷疾なること、堅行(ケンギョウ)天子の捷疾なるに及ばず。
 此れは是れ、日月輪の車を導引する者なり。等の諸天、展転(テンデン)して捷疾なるも、寿行の生滅は、彼よりも捷疾なり。刹那に流転して、暫くも停まること有ること無し。」
 

【現代語訳】
 衆生の寿命が速やかに生滅して止まらないことについて。
 世尊(釈尊)が世に在りし時に、一人の比丘(出家)が仏の所に来て二つの足を礼拝し、一方に下がって世尊に申し上げました。
「衆生の寿命は、どのように速やかに生滅するのでしょうか。」
 仏は答えて、「私が説いても、お前は知ることが出来ないであろう。」
 比丘が言うには、「それでは例えによって明らかに示すことが出来るでしょうか。」
 仏は答えて、「それなら出来る。今お前の為に説こう。例えば四人の弓の名手がそれぞれ弓を取り、互いに背を向けて集まって立ち、四方に矢を射ろうとしている時に、一人の足の速い男が来て、『お前たちは今同時に矢を放ちなさい。私がすべての矢を落ちないように取って見せよう』と言ったとする。これをどう考えるか。この男の足は速いであろうか。」
 比丘は仏に答えました。「世尊よ、それは甚だ速いです。」
 仏の言うには、「その男の速さは地行夜叉に及ばず、地行夜叉の速さは空行夜叉に及ばず、空行夜叉の速さは四天王天の速さに及ばない。その天の速さは太陽と月の速さに及ばず、太陽と月の速さは堅行天子の速さに及ばない。
 この天子は太陽と月の車を引く者である。
これらの諸天が次々に速くても、寿命の生滅はそれよりも速いのである。刹那に移り変わって暫くも止まることは無い。」
 

《人の生がどれほど「刹那」に「流転」するかということが、仏典(「大毘婆沙論」だそうです)を引いて改めて説かれます。話の順序が逆ではないか、この話はもっと前になされるのがいいのではないかという気がしますが、ともかくも読んでいきます。
 さて、ここではいったい何が説かれているのでしょうか。
 四方に放たれた矢を、それぞれが地に落ちる前に捕らえることのできる俊足の人があるとして、その足の速さよりも「地行夜叉」が速く、「空行夜叉」はさらにそれよりも速く、さらに「四天王天」、「日月二輪」、「堅行天子」と速いものがいるのだが、「寿行の生滅は、彼よりも捷疾」なのだと説かれます。
 どうもよく分かりません。例えば、少々理屈っぽいのですが、初めの矢を拾いに走る人は、少なくともその走っている間は寿命があっているのではないでしょうか。
 寓話としてはおもしろく、どれほど速いかという説明にはなっていますが、あまりに突飛な比喩で大変観念的で、速さが実感とならず、失礼ながらあまりうまい比喩ではないような気がします。
 私たちの人生においては、多くのことが、そのことが始まるまでの時間は長く感じられ、終わるといかにもあっけなく、ほんの一瞬のことだったと感じられます。
 ことが終わった立場で考えるか、これから向かおうとする立場で考えるかによって時間の長短の感覚は異なるという、相対的なものですが、実は終わってからでは何を考えても仕方がなく、菩提心を起こすというのもこれからの生き方なのであってみれば、「刹那生滅」も想像力の中で把握するしかなく、それを実感的に理解するのは、なかなか難しいことだと思われます。
 そんなことを考えると、禅師の時間論と言われる「有時」巻が読んでみたくなります。》


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4 三千世界を見る

 もし如来の道力(ドウリキ)によるときは、衆生また三千界をみる。
 おほよそ本有(ホンヌ)より中有(チュウウ)にいたり、中有より当本有(トウホンヌ)にいたる、みな一刹那一刹那にうつりゆくなり。
 かくのごとくして、わがこころにあらず、業(ゴウ)にひかれて流転生死(ショウジ)すること、一刹那もとどまらざるなり。
 かくのごとく流転生死する身心(シンジン)をもて、たちまちに自未得度先度他の菩提心をおこすべきなり。たとひ発菩提心のみちに身心ををしむとも、生老病死して、つひに我有(ガウ)なるべからず。
 

【現代語訳】
 もし如来の道力に頼るならば、人々は全世界を見ることが出来ます。凡そ本有(人の生存している期間)から中有(死んで次に生まれ変わるまでの期間)に至り、中有からまた本有の生存に至るまで、皆一刹那一刹那に移り変わっていくのです。
 このように、自分の意志ではなく、自らの行為に引っ張られて生死を流転して、一刹那も止まることはありません。
 このように生死流転する自分の身心で、すぐに自未得度先度他(自らが悟りの浄土へ渡る前に、先ず他を渡す)の菩提心を起こすべきです。何故なら、たとえ菩提心を起こす道に身心を使うことを惜しんでも、この身は生老病死して、遂に自分の所有ではないからです。
 

《「三千世界」は、ここでは人が(万物がそうなのですが)経巡る「本有」「当有」「当本有」を言っているようです。その三千世界とは「を「みる」とはどういうことなのか。
 普通、人はそれぞれの世界にあって、ただそこに存在しているだけなのですが、「如来の道力」を得れば、今いる世界にいながらにして自分の他の世界における生をも見通して、先に2節で考えたように、その生の一刹那に意味あらしめる、理解する、ということなのでしょうか。
 そこでは、一切は生まれ替わり生き替わりし続けているのだが、それらの世界もまたすべて、一刹那ごとのことであるのを見るだろう、…。
 またしても『風景開眼』(「現成公案」巻第三章5節)で恐縮ですが、あのときに画家が目の前の風景に見たと言う「輝く生命の姿」は、もちろん固定的にそこにあるものではなく、画家の緊張した精神において見えたもので、その弛緩とともに消え去るでしょう。それはまさしく「刹那生滅」すると言えないでしょうか。
 「当有」はその中においてまた無数の刹那が生滅し「有」がまたそれぞれに刹那生滅する、そういう次第で、自分の意志によることなく、この世に存在するものの定めとして一刹那も留まることなく「流転生死する」ことを「みる」ためには、まさに「如来の道力」によるほかはないのであるから、ただちに「自未得度先度他の菩提心をおこすべき」なのである、…。



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