しかあればすなはち、たとひ在家にもあれ、たとひ出家にもあれ、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、苦にありといふとも、楽にありといふとも、はやく自未得度先度他の心をおこすべし。
衆生界は有辺(ウヘン)無辺にあらざれども先度一切衆生の心をおこすなり。これすなはち発菩提心なり。
一生補処菩薩、まさに閻浮提(エンフダイ)にくだらむとするとき、覩史多天(トシタテン)の諸天のために、最後の教えをほどこすにいはく、「菩提心は是(コレ)法明門(ホウミョウモン)なり、三宝を断ぜざるが故に。」
あきらかにしりぬ、三宝の不断は菩提心のちからなりといふことを。菩提心をおこしてのち、かたく守護し、退転なかるべし。
【現代語訳】
ですから、たとえ在家であれ、たとえ出家であれ、或いは天上界の人であれ、或いは人間界の人であれ、苦にあっても、楽にあっても、早く自未得度先度他の心を起こしなさい。
衆生の世界は有限でも無限でもありませんが、先度一切衆生(先ず全ての衆生を渡す)の心を起こすのです。これが発菩提心なのです。
一生補処菩薩(弥勒菩薩)が閻浮提(人間の住む地域)に下りようとする時に、覩史多天の諸天衆のために最後の教えを与えて言うには、「菩提心は法を明らめ聖道に入る門である。それは三宝(仏と法と僧)を断絶させないからである。」と。
これにより、三宝を断絶させないことは菩提心の力であることが明らかに知られます。菩提心を起こした後は、それを固く守って退いてはいけません。
《初めの「しかあれば」は、前節前半のこと、「禅苑清規」にも書いてあるし、「西天二十八祖、唐土六祖等、および諸大祖師」も菩薩行を行ったのであるのだから、ということでしょうか。
次の「衆生界は有辺無辺にあらざれども」は、どうしてこういう説明が必要なのか、よく分かりません。
まず、「有辺無辺」は、「辺」ですから、平面的領域を示しているのだと考えて、「衆生界」と、「度」るべき真実界(彼岸?)との境界と考え、そこに目に見える境界があるわけではないけれども、というような意味かと思われます。
次に、「起こすなり」は、前の「おこすべし」と同様でしょうか。
仮に「有辺」、境界が目に見える形で存在するなら、「先度一切衆生の心」を起こすのも容易かも知れませんが、「自未得度」ですから境界が自分には見えているはずはなく、しかしそれでも、「先度一切衆生」を願い、努めることが必要だ、というようなことになるでしょうか。
「一生補処菩薩」は、ここでは弥勒菩薩となっていますが、つまり「菩薩としての修行が充足して、次の生涯において仏となり仏位を補うべき最高位にある菩薩」(『読解』)で、「覩史多天」はその菩薩の住処なのだそうです。》