『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

三時業

結び

世尊 (ノタマ)はく、
「仮令(タトイ)百千劫(ゴウ)を経(フ)とも、所作の業(ゴウ)は亡ぜず。因縁会遇(エグウ)の時には、果報還って自ら受く。
 汝等当に知るべし、若し純黒業ならば、純黒の異熟(イジュク)を得、若し純白業(ジュンビャクゴウ)ならば、純白の異熟を得、若し黒白業ならば、雑(ゾウ)の異熟を得ん。
 是の故に汝等、応に純黒及び黒白の雑業(ゾウゴウ)を離るべし。当に勤めて純白の業を修学すべし。」
 時に諸の大衆、仏説を聞き已って、歓喜し信受しき。
 世尊のしめしましますがごときは、善悪の業つくりをはりぬれば、たとひ百千万劫をふといふとも不亡なり。もし因縁にあへば、かならず感得す。
 しかあれば、悪業は懺悔(サンゲ)すれば滅す、また転重軽受す。善業は、随喜すればいよいよ増長するなり。
 これを不亡といふなり、その報なきにはあらず。
 
 正法眼蔵 三時業

【現代語訳】
 世尊(釈尊)の言うことには、
「たとえ百千劫という長い時を経るとも、作った善悪の業はなくなることはない。その因縁が熟すれば、果報はその人自らが受けるのである。
 お前たちはよく心得ておきなさい。その業が、もし純黒の悪業であれば、純黒の悪しき果報を得、もし純白の善業であれば、純白の善き果報を得、もし黒白の混ざる業であれば、善悪混ざった果報を得るのである。
 この故にお前たちは、純黒の業や黒白混ざった業から離れなさい。そして、純白の業を修めることに努めなさい。」と。
 この時、法会に集まった人たちは、仏の教えを聞き終わると、歓喜して信奉しました。
 世尊のお示しになったことは、善悪の業を作り終われば、たとえ百千万劫の時を経てもなくならず、もし因縁が熟すれば、必ず果報を感受するということなのです。
 そういうことで、悪業は懺悔すれば滅するか、又は重いものも軽くなるのであり、善業は喜び修めれば、いよいよ増していくのです。
 これが業はなくならないということであり、その果報が無いわけではありません。 

『正法眼蔵』三時業
 

《最後は釈尊の言葉で結ばれます。
 これだけの言葉を聞いて、人々が「歓喜し信受」したというのは、ちょっと腑に落ちないような気もしますが、ここでは必要な話だけがひかれているのであって、実際はもっと長い話、例えばこの巻全体のような話がなされたのかもしれません。
 いや、現世が災厄そのものであるような生を送っている人々にとっては、そこから抜け出る道を確信を持って示されたことは、大きな救いであり喜びであったとも考えられます。

あるいはまた、もともと信用している人の言葉であれば、その言葉というよりも声を聞いただけでありがたく、まして自分たちに向かって励ますように語られたのであれば、ひとえに感激したというのも、まったく分からない話ではありません。

 『提唱』が終わりに「多少学問をしておる人はこういう巻を軽蔑する。小乗仏教の主張であって、大乗仏教ではこういう善悪のことはいわないのが普通だ、こういう理解のしかたをするわけでありますが、…善悪の因果を信ずるということが釈尊の教え」と言っています。
 なお、ここはこれで終わっていますが、『全訳注』にはこれまでの巻々と同様に、最後に次のように懐弉の言葉がありますので、添えておきます。 

「建長五年癸丑三月九日、永平寺の首座寮にありて之を書写す 懐弉」 

 次は「四馬」巻を読んでみます。》

 三時業 おわり。

2 八種の業

 参学のともがら、この三時業をあきらめんこと、鳩摩羅多尊者のごとくなるべし。すでにこれ祖宗の業なり、廃怠(ハイタイ)すべからず。
 このほか不定業(フジョウゴウ)等の八種の業あること、ひろく参学すべし。いまだこれをしらざれば、仏祖の正法つたはるべからず。
 この時業の道理あきらめざらんともがら、みだりに人天の導師と称することなかれ。
 

【現代語訳】
 仏道を学ぶ仲間は、この三時業を鳩摩羅多尊者のように明らかにしなさい。これは仏祖の宗門の務めであり怠ってはいけません。
 この他に果報の時期が定まらない不定業など、果報のある業と果報のない業と合わせて八種の業があることを広く学びなさい。これを知らなければ仏祖の正法は伝わらないのです。
 ですから、この三時業の道理を明らかにしていない仲間は、みだりに人間界天上界の導師と称してはいけません。
 

《この節の「このほか」以下終わりまでは『全訳注』にもある言葉で、「不定業」「八種の業」については、以下の注があります。
「不定業」・順不定業である。つまり果報を受ける時期の定まらない業である。
「八種の業」・順現報受業などの三つに、いまの不定業を加えると四種の業になる。それらを善悪によってさらに二つにわければ八種の業となるのである。
 そして『全訳注』は、この後に、先に挙げた短い文章があって(第十六章3節)、次の第十八章の文章に合流します。その短い文章がちょっと気になりますので、再掲します。
「かの三時の悪業報、かならず感ずべしといえども、懺悔するがごときは、重きを転じて軽受せしむ。また滅罪清浄ならしむるなり。善業また随喜すれば、いよいよ増長するなり。これみな作業の黒白にまかせたり。」
 気になるのは、前世において行ったことは当人には分からないことではないかと思うのですが、それを「懺悔」することができるだろうか、ということであり、また、できるとして、それなら先にあった師子尊者や二祖大師は、あれほどの人でありながら「懺悔」をしなかったのだろうか、ということです。
 あるいは、「懺悔」していたからこそ、災厄があの程度で済んだのだということなのかもしれませんが。…。》


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1 長沙批判~4

 のち偈にいはく、「涅槃償債の義、一性(イッショウ)にして更に殊(コト)なること無し。」
 なんぢがいふ一性は、什麽(ナン)の性なるぞ。三性のなかに、いづれなりとかせん。おもふらくは、なんぢ性をしらず。
 涅槃償債の義とはいかに。なんぢがいふ涅槃は、いづれの涅槃なりとかせん。声聞(ショウモン)の涅槃なりとやせん、支仏の涅槃なりとやせん。諸仏の涅槃なりとやせん。たとひいづれなりとも、償債の義にひとしかるべからず。
 なんぢが道処、さらに仏祖の道処にあらず、更に草鞋を買ふて行脚すべし。
 師子尊者二祖大師等、悪人のために害せられん、なんぞうたがふにたらん。最後身にあらず、無中有(ムチュウウ)の身にあらず、なんぞ順後次受業のうくべきかなからん。
 すでに後報(ゴホウ)のうくべきが熟するあらば、いまのうたがふところにあらざらん。
 あきらかにしりぬ、長沙いまだ三時業をあきらめずといふこと。
 

【現代語訳】
 長沙は後に教えを説いて、「涅槃(煩悩の滅)と悪業の報いを受けること(祖師の死)は、一つの性であって少しも違わない。」と言いました。
 あなたの言う一つの性とは、いったい何の性を言うのでしょうか。三性(善の性、悪の性、善でも悪でもない性)の中のどれを言うのでしょうか。思うに、あなたは性を知らないのです。
 「涅槃と悪業の報いを受けること」とはどういうことでしょうか。あなたの言う涅槃は、どの涅槃なのでしょうか。
 声聞(仏の説法を聞いて悟る者)の涅槃でしょうか、それとも支仏(自ら縁起の法を観じて悟る者)の涅槃でしょうか、それとも諸仏の涅槃のことを言っているのでしょうか。たとえ何れであっても、涅槃は悪業の報いを受けることと同じではありません。
 あなたの説く所は、まったく仏祖の教えではありません。もう一度、草鞋を買って行脚修行してくることです。
 師子尊者や二祖大師(慧可)などが、悪人のために害されたことを、どうして疑うことが出来ましょうか。祖師は、輪廻を脱して仏となる最後身の菩薩ではありませんし、極善を修めて死後すぐに善処に生まれるという中有の無い身でもありません。どうして順後次受業の報いを受けないものでしょうか。
これは、すでに順後次受業の報いを受けるべき時が熟したのであって、今疑うところではないのです。
 明らかに知ることは、長沙がまだ三時業(三時にわたる善悪業の報い)を明らかにしていないということです。
 

《文中の「なんぢ」は長沙を指すのでしょう。彼を厳しく問い詰める形で語られます。弟子に語って聞かせるはずの話ですから、こういう呼びかけはそぐわないように思うのですが、この書には時折こういう語り口が見られます。
 正法のためには一歩も引かないという一徹な面と、そう言っては失礼ですが、真っ正直で激しやすい一面もあったのではないかという気がします。
 そして結局、皓月の「師子尊者二祖大師の如きは、什麽としてか債を償い得去るや」という問い(第十五章1節)に対する禅師の答えは、「後報のうくべきが熟する」ことによるものなのだ、とされます。
 師子尊者や二祖大師が現世においていかに優れた師であっても、前世またはそのまた前世において悪業があったのであれば、その報いは最終的には逃れることはできないのであって、そういう人には相応の悪業があったのだというものでした。
 その悪業(善業にしても同じでしょうが)が何であったか、それを今の当人は知ることはできないのです。ただ、彼等は、現世においてその報いとして災厄に遭ったのですが、次世においては、現世における優れた行いによって間違いなく涅槃を得ることができるだろう、ということになります。
 長沙にはそのことが分かっていなかった、そういう長い視野が欠けていると禅師は厳しく激しく批判します。》


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3 長沙批判~3

 業障本来空なりとして、放逸に造業(ゾウゴウ)せん衆生、さらに解脱の期あるべからず。
 解脱のひなくば、諸仏の出世あるべからず。諸仏の出世なくば、祖師西来すべからず。祖師西来せずば、南泉あるべからず。南泉なくば、たれかなむぢが参学眼(サンガクゲン)を換却せむ。
 また如何是業障と問するとき、さらに本来空是(ホンライクウゼ)と答する、ふるくの縛馬答(バクメトウ)に相似なりといふとも、おもはくは、なむぢ未了得の短才をもて、久学の供奉(グブ)に相対するがゆゑに、かくのごとくの狂言を発するなるべし。
 

【現代語訳】
 業障は本来実体が無いと考えて、勝手気ままに悪業をつくる人々には、決して解脱の機会はありません。
 解脱の時がなければ、諸仏が世に出現することもありません。諸仏が世に出現しなければ、祖師達磨も中国にやって来なかったことでしょう。祖師達磨が中国に来なければ南泉(普願)もいなかったのです。南泉がいなければ、誰が長沙の仏道を学ぶ眼を正してくれたでしょうか。
 また皓月が「悪業の障りとはどういうものでしょうか。」と尋ねた時に、さらに長沙が「本来実体が無いということである。」と答えたことは、昔の縛馬答(要領を得ない問答)に似てはいますが、思うに、長沙がまだ悟りを得ていない乏しい才で、久しく学んだ皓月供奉に相対したために、このような狂言を発したのでしょう。
 

《やはり、「業障」(仏道精進に対しての人の行動が生みだした障害・私の理解した解釈です)は実在する、ということのようです。
 人間の行った行動の善悪の報いは、必ず「三時業」として顕現する、行動が善であったならばその報いによって解脱への道が開かれます。
 それはいいのですが、ここの冒頭の一文によれば、「放逸に造業せん衆生」は「解脱」がないと言っていて、逆から言えば、同じ「造業」するにしても、「業障本来空」をいいことに「放逸に造業」したのでなければ、解脱の可能性があるということのようです。
 つまり、うっかりして犯した悪行、また、悪だと承知しながらやむを得ず行われた悪業、あるいは後になってあれは悪業であったと当人が認めた悪業などは、解脱の障りとはなっても、決定的阻害となるのではなく、一定の報いを受けることによって解脱への道が開けるのだ、と言っているように思われます。
 ちょっと思いがけない柔軟な考え方、というか妥協的・現実的な考え方のように見えて、普段の禅師の厳格な断定的な発想とは異なるような気もしますが、
ちなみに、『全訳注』の原文には、ここにはない次の一節があって、後の第十八章に続いています。
「懺悔するがごときは、重を転じて軽受せしむ。また滅罪清浄ならしむるなり。善業また随喜すれば、いよいよ増長するなり。これみな作業の黒白にまかせたり」。

 そういうレベルでは、「空」ということはないのであって、条件を整えさえすれば、必ず解脱の道がある、という宇宙の摂理があるからこそ、過去においての諸仏の悟道があったのであり、祖師西来があり、南泉がいたのです、…。


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2 長沙批判~2

 皓月が問は、業不亡(ゴウフモウ)の道理によりて、順後業のきたれるにむかふて、とふところなり。
 長沙のあやまりは、如何是本来空と問するとき、業障是(ゴウショウゼ)とこたふる、おほきなる僻見なり。
 業障なにとしてか本来空ならむ、つくらずば業障ならじ、つくられば本来空にあらず。
 つくるは、これつくらぬなり、業障の当体をうごかさずながら、空なりといふは、すでにこれ外道の見なり。
 

【現代語訳】
 皓月の問いは、業はなくならないという道理によって、過去世の悪業の報いが来ることに対して尋ねたのです。
 長沙の誤りは、皓月が「本来実体が無いとは、どういうことでしょうか。」と尋ねた時に、「悪業の障りのことである。」と答えたことで、これは大きな僻見と言うべきです。
 業障がどうして、本来実体が無いものと言えましょうか。悪業を作らなければ業障は無いでしょうが、作れば実体が無くはありません。
 悪業をつくることは、つくらないのと同じであると言ったり、業障そのものを動かさずに、それには実体が無いと言うのは、すでに外道の考えです。
 

《皓月は「業障」の深い意味を知らないままに問うたのであったにしても、「業不亡の道理」(業が三時に亘って因果を及ぼすことを言っているのでしょう)を踏まえての問いであったことは、当然でしょう。
 さて、長沙の答えは「業障」は「本来空」だというものでしたが、禅師は、そんなことはありえないのであって、「業障」は自分の手で作るもので作られたものは、「空」であることはない、と言います。
 たとえば、「三障」のうちの「煩悩障(貪り怒り愚かさなどの煩悩による障り)」は、いわば意識の問題ですから、空とも言えそうですが、実際に行われた行為やその結果は確かに空とは言いがたいようにも思われます。
 意識界は空だが、行動界は実在する、…? いや、「空」というのは、そんな部分的な話ではないでしょう。
 ともあれ、禅師は、この問答の前提とされた「了ずれば即ち業障本来空」(第十五章)を否定して、あの二人の祖には、前世において「業障」があって、処刑はその結果だ、つまり順後次受業なのだ、と言っているようですが、そういうことなのでしょうか。》

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