『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

出家功徳

出家成道の正伝

禅苑清規(ゼンエンシンギ) 第一に云く、
「三世諸仏、皆出家成道と曰(イ)ふ。西天二十八祖、唐土六祖、仏心印を伝ふる、尽く是 沙門なり。蓋(ケダ)し以て毘尼(ビク)を厳浄(ゴンジョウ)し、方(マサ)に能く三界に洪範たり。然れば則参禅問道は、戒律を先と為す。既に過を離れ非を防ぐに非ずば、何を以てか成仏作祖せん。」
 たとひ澆風(ギョウフウ)の叢林なりとも、なほこれ薝蔔(センプク)の林なるべし、凡木凡草のおよぶところにあらず。
 また合水(ゴウスイ)の乳のごとし。乳をもちゐんとき、この和水の乳をもちゐるべし、余物(ヨモツ)をもちゐるべからず。
 しかあればすなはち、三世諸仏、皆曰出家成道の正伝、もともこれ最尊なり。さらに出家せざる三世諸仏おはしまさず。これ仏仏祖祖正伝の正法眼蔵涅槃妙心無上菩提なり。
 

正法眼蔵 出家功徳第一 建長七年 乙卯(キノトウ) 夏安居日(ゲアンゴビ)。延慶三年八月六日、之を書写す。
 

【現代語訳】
 禅苑清規第一に言う。
「三世(過去現在未来)の諸仏は、皆出家して仏道を成就するといわれる。又インド二十八代の祖師や中国六代の祖師など、仏心を証し伝えてこられた方々は、すべて出家である。そもそも出家は戒律を厳守して、まさに世間の立派な模範となるべきものである。その故に、禅に参じ仏道を学ぶには、まず戒律を守ることが大切である。自ら罪過を離れ非法を防ぐことなくして、どうして仏となり祖となることができようか。」と。
 たとえ末世の道場であっても、この道場はクチナシの薫る林であって、平凡な草木の生える所ではありません。
 又修行僧は、水と乳とがよく混ざりあうように和合しなさい。その乳は、水に溶ける新鮮な乳を使うべきであり、古い残り物を使ってはいけません。
 このように、「三世の諸仏は、皆出家して仏道を成就するといわれる。」という正しい伝統は、最も尊いものです。出家をしない三世の諸仏は決しておられないのです。出家は仏祖の正しく伝えた正法眼蔵(仏法の神髄)であり、涅槃妙心(煩悩を滅ぼした優れた心)であり、無上菩提(最上の悟り)なのです。
 

《『禅苑清規』は、「禅苑というのは、禅寺禅林に同じ。清規とは軌範のこと。『禅苑清規』は現存する最古の清規である。…宋の慈覚大師・長蘆宗賾…によって記された」(サイト「つらつら日暮らしWiki」)というもののようです。
 そこで言われているのは、まず出家をして、そして受戒しなければ「成仏作祖」はあり得ない、ということです。
澆風」の「澆」は「薄い」の意で、学道の心の薄い時代ということでしょうか、そういう時代の僧堂であっても、僧堂であるのだから、凡俗とは異なる、立派な生活がなされているところでなくてはならない、…、と言っているところをみると、この「叢林」は永平寺のことを言っているのでしょうか。
 「和水の乳をもちゐるべし」がよく分かりません(以前、どこかに出てきたような気もします)が、ともあれ水で薄めた乳、乳を飲むときに、水で薄めた乳の他のものを飲んではならない、「澆風」ゆえに学道心が薄いのは仕方がないが、仏法以外のものを求めたりしてはならない、というようなことでしょうか。
 終わりのところ、ここには「出家功徳第一」とありますが、諸注、「第一」の語がありません。
 以上で、「出家功徳」巻を終わり、次は「供養諸仏」巻を読んでみます。》


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出息入息をまたず、いそぎ出家せん

羅睺羅(ラゴラ)尊者は、菩薩の子なり、浄飯王(ジョウボンオウ)のむまごなり。帝位をゆづらんとす。しかあれども、世尊あながちに出家せしめまします。
  しるべし、出家の法最尊なりと。密行(ミツギョウ)第一の弟子として、いまにいたりていまだ涅槃にいりましまさず。衆生の福田(フクデン)として世間に現住しまします。
  西天伝仏正法眼蔵の祖師のなかに、王子の出家せるしげし。いま震旦の初祖、これ香至王(コウシオウ)第三皇子なり。王位をおもくせず、正法を伝持せり。出家の最尊なる、あきらかにしりぬべし。
  これにならぶるにおよばざる身をもちながら、出家しつべきにおきていそがざらん、いかならん明日をかまつべき。出息入息をまたず、いそぎ出家せん、それかしこかるべし。
  またしるべし、出家受戒の師、その恩徳すなはち父母にひとしかるべし。
 

【現代語訳】
  羅睺羅尊者は、菩薩(出家する前の釈尊)の子であり、浄飯王の孫にあたる人です。王は羅睺羅に王位を譲ろうとしましたが、釈尊は強いて出家させました。
  このことから知りなさい、出家の法は最も尊いものであることを。羅睺羅尊者は、仏弟子の中で密行(戒を善く守る)第一の弟子として、今でも涅槃(死滅)に入ることなく、人々の福田(幸福の収穫をもたらす田)として世間に居られるのです。
  西方インドで、仏の正法眼蔵(仏法の真髄)を伝えた祖師の中には、王子の身で出家された方が数多くおられます。今の中国の初祖(菩提達磨)は、香至王の第三皇子であり、王位を重んぜず出家して仏の正法を伝えました。このようなことからも、出家は最も尊いものであることが明らかに知られます。
 この人たちに及ばない身分であれば、すぐにも出家すべきなのに、何故急がないのでしょうか。どのような明日を待って決心するのでしょうか。息をつぐ間も惜しんで、急いで出家することが賢明というものです。
 又知りなさい、出家受戒の師の恩は、父母の恩にも等しいものです。
 

《前節から続いて、王族が出家した話です。祖父を起点として語られているのでちょっとごちゃごちゃして分かりにくいのですが、前節は釈尊の同世代の話、こちらは次の世代、釈尊の息子の話です。
 家系図的に言えば、師子頬王―浄飯王―釈尊(およびその兄弟・従兄弟)―羅睺羅(およびその弟たち)となり、釈尊以下は全て出家してしまったような形になります。
 禅師は「しるべし、出家の法最尊なり」と言いますが、実際問題、この王家は、この後どうなったのだろうかと心配になり、「Wikipedia」を覗いてみると、「仏教文献等によると、釈迦族は釈迦の晩年の時期、隣国コーサラ国の毘瑠璃王の大軍に攻められ滅亡したとされる。異説も有り、滅亡したのではなく、生き残った四人の王族がヒンドゥー教に改宗して釈迦族は存続したという伝承も存在する[要出典]。シャカ族で生き残った四人の男子は、それぞれ他の国へ行って、みなその国の王になったと伝える説もある[要出典]」とありました。
 どうやら釈尊の後まもなく滅亡したようですが、後継が途絶えて、というわけではないようです。しかし、いずれにしても、相当に古いらしい系譜が、このあたりで途絶えたことは間違いなさそうで、釈尊の父、祖父は、それなりに心痛があったことだろうと思われます。
 不思議に思われるのは、今更ですが、当人にそういう内的要請があるならまだしも、そうでもない人に家族を捨てての出家を勧めるというのは、どういうことなのでしょうか。
 もちろん一面、心の安定を得るということにはなるのでしょうが、肉親を捨てたことによる痛みはどうなるのでしょうか。また、それを極端まで進めて仮に人類が全て出家するようなことになったら、人間社会は崩壊し、人類は子孫を喪失することにならないでしょうか。
 また一面、「自未得度先度他」で他者の幸せのためにもなるのでしょうが、その他者は在家者なのであって、在家者を幸せにしても、あまり意味がないということにはならないのでしょうか。
 私自身は、この歳になって仏教者たることに少なからぬ憧れがありますが、それでもなお、この部分についてはどうも納得がいかず不思議な気がします。
 禅師はさらに、シャカ族以外の王族でも出家した人があり、中国では達磨がそうだったことを挙げて、まして、そうした尊貴な身分でもないわれわれなどは、すぐにも現世を捨てるべきだと、強調します。》


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2 王族の出家

 このゆゑに、西天竺国にはすなはち難陀、阿難、調達(チョウダツ)、阿那律(アナリツ)、摩訶男(マカナン)、抜提(バダイ)、ともにこれ師子頬王(シシキョウオウ)のむまご、刹利種姓(セツリシュショウ)のもとも尊貴なるなり、はやく出家せり。後代の勝躅(ショウチョク)なるべし。
 いま刹利にあらざらんともがら、そのみをしむべからず。王子にあらざらんともがら、なにのをしむところかあらん。
 閻浮(エンブダイ)最第一の尊貴より、三界最第一の尊貴に帰するは、すなはち出家なり。自余の諸小国王、諸離車衆(ショリシャシュ)、いたづらにをしむべからざるををしみ、ほこるべからざるにほこり、とどまるべからざるにとどまりて出家せざらん、たれかつたなしとせざらん、たれか至愚なりとせざらん。
 

【現代語訳】
 この故に西方のインド国では、難陀、阿難、提婆達多、阿那律、摩訶男、抜提など、すべて師子頬王の孫で、王族の最も尊貴な人たちでしたが、皆釈尊に従って速やかに出家したのです。これは、後の人々への勝れた足跡です。
 まして今、王族でない人たちは、その身を惜しんではいけません。王子でない人たちには、何の惜しむ所がありましょう。
 インド国の最も尊貴な王族から庶民に至るまで、この世界で最も尊貴な仏に帰依して出家したのです。まして、その他の多くの小国の王や民衆が、いたずらに惜しむべきでないものを惜しみ、誇るべきでないのに誇り、止まるべきでない所に止まって、出家しないことは、誰が見苦しい事としないでしょうか。誰が愚かの至りとしないでしょうか。
 

《これまで幾度となく繰り返された、出家こそこの世の最大の価値あることである、という話です。
 「師子頬王」は「釈尊の祖父にあたる」(『全訳注』)人だそうで、したがって難陀以下の人は釈尊の兄弟、ないしは従兄弟ということになります(第二十一章1節にも出てきました)。
 「閻浮提最第一の尊貴より…」のここの訳は(『提唱』の訳も同様に見えますが)、ちょっと変で、「この世のもっとも尊貴な存在から、さらに三界のもっとも尊貴な存在へと転ずる、それがすなわち出家なのである」(『全訳注』)というのがよいように思います。
 しかし、これも何度も書いたことですが、高貴な人が行ったことだからと言って、それが価値あることだとは思えず、また、地位の「高貴」であることが価値であるかのような言い方で、釈然としません。
 むしろ出家した先の世界がどのようなものであるのか、涅槃とはどのような状況を言うのか、そういうことを、もっと繰り返し聞きたい気がします。
 それは結局自分でその世界に入る以外に知ることはできないことなのでしょうが、それでもなお、その片鱗でも、と思います。
 桂枝雀は「茶漬け閻魔」で極楽を、「静かやがな、だいち。…(あなたは)『静かはえぇ』っちゅうけど、…一日や二日はえぇけども、三日、四日、五日と『静か』っちゅうけど並みの静かやあらへん、シシラ、シ~ンとしてて、ちょいちょい蓮の花が、ポンッと開く音が聞こえるぐらいで、あとはシシラ、シ~ンとしてる。住んでる人々も大きぃ声出さずに小ぃさい声で、ぼそぼそ、ぼそぼそ、ぼそぼそ…、なぁるほど、てなこと言ぅてんねんで」と描いて見せました。
 これは勿論落語の極楽ですが、といって、では本当はそれと違ってどういう世界なのか、悟りの世界とはどういう世界なのか、それを本気で聞きたいという思いがあります。》


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1 出家行法

 その出家行法に四種あり、いはゆる四依(シエ)なり。
一、形寿(ギョウジュ)を尽くして樹下(ジュゲ)に坐す。
二、形寿を尽くして糞掃衣(フンゾウエ)を著(ツ)く。
三、形寿を尽くして乞食(コツジキ)す。
四、形寿を尽くして病有れば陳棄薬(チンキヤク)を服す。
 共に此の法を行ぜば、方(マサ)に出家と名づけ、方に名づけて僧と為す。若し此を行ぜざれば、名づけて僧と為さず。是の故に出家行法と名づく。
 いま西天(サイテン)東地、仏祖正伝するところ、これ出家行法なり。一生不離叢林なれば、すなはちこの四依の行法そなはれり。これを行四依(ギョウシエ)と称す。
 これに違して五依(ゴエ)を建立せん、しるべし、邪法なり。たれか信受せん、たれか忍聴(ニンチョウ)せん。
 仏祖正伝するところ、これ正法なり。これによりて、出家する人間、最上最尊の慶幸なり。
 

【現代語訳】
 出家行法(出家の修行方法)には四種があり、それは四依(四つのより所)と言われるものです。
一つには、生涯 木の下に坐して修行する。
二つには、生涯 糞掃衣(捨てられたぼろ布で作った袈裟)を着て修行する。
三つには、生涯 人々に食を乞うて修行する。
四つには、生涯病気になれば陳棄薬(あまり使われない昔の薬)を服して癒す。
 これらの修行方法を共に行じれば、まさに出家と名付け、僧と名付けるのです。もしこれらの事を行じなければ、僧と名付けることは出来ません。この故に出家行法と名付けるのです。
 今、インドや中国に於いて、仏祖が正しく伝えてきたものは、この出家行法です。一生修行道場を離れなければ、この四依の行法は具わるのです。これを行四依と言います。
 これに背いて五依(五つのより所)を立てる説もありますが、それは邪法であると知りなさい。誰が一体信じて聞き入れるものでしょうか。
 仏祖の正しく伝えた出家行法は釈尊の正法です。これによって出家する人は、最上最尊の幸福なのです。
 

《どうやらこの巻も終わりに近づいたようで、出家の功徳の話から、ここではそのあり方が語られます。
 「四依」は「出家たるべきものの依るべき四つの生活の仕方」(『全訳注』)。前の三つはこれまで様々なところで語られてきたことですが、四つ目は初めてだと思います。
 「陳棄薬」は、ここには「あまり使われない昔の薬」とありますが、「『陳』は古い、『棄』は捨てられたという意味」(『提唱』)で、『全訳注』によれば、「大小便をもって製した薬」なのだそうで、本当に薬と言えるのかどうか疑われますが、つまりは前の三つと同じく質素な生活をいうのでしょう。
 「五依を建立」とありますが、『全訳注』が「四依をすてて五事を立てんとしたものに提婆達多がある。いま、特に五依というは、それを指さすものかどうか定かではないが、念のために挙げておく」と言っています。
 途中、「これを行四依と称す」の意味が分かりにくいのですが、「一生不離叢林」を別名として四依と呼ぶ、ということでしょうか。あるいは四依が具わっていることを言うのでしょうか。文字通りに見れば、四依を行う、ということのように思えますが。》


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閻魔の出家~2

あきらかにしりぬ、たとひ閻羅王なりといへども、人中の生をこひねがふことかくのごとし。すでにうまれたる人、いそぎ剃除鬚髪(シュホツ)し、著三法衣して、学仏道すべし。これ余趣にすぐれたる人中の功徳なり。
 しかあるを、人間にうまれながら、いたづらに官途世路(セイロ)を貪求(トング)し、むなしく国王大臣のつかはしめとして、一生を夢幻にめぐらし、後世(ゴセ)は黒闇におもむき、いまだたのむところなきは至愚なり。
 すでにうけがたき人身をうけたるのみにあらず、あひがたき仏法にあひたてまつれり。いそぎ諸縁を抛捨(ホウシャ)し、すみやかに出家学道すべし。国王大臣、妻子眷属は、ところごとにかならずあふ。仏法は、優曇華のごとくにしてあひがたし。
 おほよそ無常たちまちにいたるときは、国王、大臣、親昵(シンジツ)、従僕、妻子、珍宝たすくるなし、ただひとり黄泉におもむくのみなり。おのれにしたがひゆくは、ただこれ善悪業(ゼンアクゴウ)等のみなり。
 人身を失せんとき、人身ををしむこころふかかるべし。人身をたもてるとき、はやく出家すべし。まさにこれ三世の諸仏の正法なるべし。
 

【現代語訳】
 これによって明らかに知られることは、閻羅王(閻魔)でさえも、このように人間に生まれることを願っているということです。ですから、既に人間に生まれた人は、急いで鬚髪を剃り落として出家し、三種の法衣を着けて仏道を学びなさい。出家は、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、天上界などより優れた人間界の中の功徳なのです。
 それなのに、人間に生まれながら、徒に役人としての処世を貪り、空しく国王大臣のお使いとして一生を夢幻の中に過ごし、後世は暗黒に向かって、頼るところも無いのでは甚だ愚かです。
 既に受け難い人間の生を受けただけでなく、会い難い仏法に会うことが出来たのです。ですから、急いですべての事を投げ捨てて、出家して仏道を学びなさい。国王 大臣 妻子 眷属は、その所ごとに必ず会うものですが、仏法は、三千年に一度咲くという優曇華のように会い難いものです。
 およそ無常(死)がにわかに来る時には、国王、大臣、親友、下僕、妻子、財宝などで助けてくれるものはなく、ただ一人で黄泉路へ向かうばかりなのです。その時の自分に付いて来るものは、専ら自らの善業や悪業などだけです。
 自分が命を失う時には、命を惜しむ心が深く起こることでしょう。ですから、命の保たれている間に早く出家しなさい。まさにこれは、過去現在未来に居られる諸仏の正法なのです。
 

《さて、引用の経典についての、禅師の解説です。
 閻魔大王の話はそれとして、ともかく、人は人として生まれた幸いを十分に生かして、一日も早く出家すべきであるのに、「官途世路」に迷って一生を夢の中で過ごすようなことになってはならない、人として生まれたことを喜び、一日も早く出家しなければならない、と語られます。
 「国王大臣、妻子眷属は、ところごとにかならずあふ」というのが目を引きます。三世の生において、私たちは同じような生を繰り返すというふうに考えるようです。
 ちょっと分からなくなりました。私たちは前世からの因果の結果、現世では人間界に生まれ、現世の因果を受けて来世に六道のどこかに行くわけですが、その次はどういうことになるのでしょうか。
 地獄に行った人は、そこでの行いが好ければ、次にはまた人間界に生まれ、そこでまた新たに「国王大臣、妻子眷属」に会うことになり、そのようにして三世は繰り返して永遠に続くということなのでしょうか。
 昔、物理で質量不変の法則というのを学びましたが、ここでも、形は変わってもそのものの存在は変わることはなく、存在し続ける、そういうことがあるのでしょうか。
 「余趣」は、「趣は赴き生まれるところの意。それに、地獄趣、餓鬼趣、畜生趣、修羅趣、人間趣、天趣の六種がある。いまは、人間趣をのぞいたその余をいう」(『全訳注』)のだそうです。》


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