『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

出家功徳

閻魔の出家

仏、比丘に告げたまはく、「当に知るべし、閻羅王(エンラオウ)、便ち是の説を作さく、『我れ当に何れの日にか此の苦難を脱し、人中に生じて、以て人身を得、便ち出家することを得て、鬚髪(シュホツ)を剃除し、三法衣を著して、出家学道すべし。』
 閻羅王すら尚ほ是の念を作す、何(イカ)に況んや汝等、今人身を得て、沙門(シャモン)と作ることを得たり。
 是の故に諸の比丘、当に身口意の行を念行して、欠有らしむること無かるべし。当に五結を滅し、五根を修行すべし。是の如く諸の比丘、当に是の学を作すべし」。
 爾の時に諸の比丘、仏の所説を聞いて、歓喜奉行しき。
 

【現代語訳】
 釈尊は、出家の弟子たちに説いた、「閻羅王(閻魔)は、次のように語ったことを知りなさい。『私がいつの日か、この苦難を脱け出して、人間の中に生まれて人身を得たならば、すぐに出家して鬚 髪を剃り落とし、三枚の出家の衣を身に着けて、仏道を学ぶこととしよう。』と。
 閻羅王ですら、このように考えるのである。ましてあなた方は、今人身を得て出家となることが出来たのである。
 この故にあなた方は、身と口と心の行いに気を付けて、善行に欠けることのないように努めなさい。五結(貪り、怒り、侮り、妬み、物惜しみ)の心を滅ぼして、五根(眼、耳、鼻、舌、身)を修めなさい。このようにして出家は仏道を学ぶのです。」と。
 その時に出家の弟子たちは、仏の説く教えを聞いて大いに喜び、信じ行いたてまつりました。
 

《ここも漢文で経典の引用ですが、「出処必ずしも定かでない」のだそうです(『全訳注』)。
 「人間が死んで地獄に行くと、その裁きをする」(『提唱』)という閻魔大王は、そういう自分の役目を「苦難」と考えていて、ゆくゆくは人間になって出家したいという希望を持っていた、…。どうも、大変に人間味のある閻魔で桂枝雀の落語に出てきそうな話です。
 閻魔についてサイト「德法寺」は次のように紹介しています。ちょっと長いですが。
今では地獄の王といわれる閻魔ですが、インドではヤマという古代から伝えられている神で、ペルシャ神話にも登場します。インド古代神話の『リグ・ヴェーダ』では、ヤマと妹のヤミーが結婚し、その子供が人類だとされていますから、人間の先祖ということになります。最初に死んだ人間となったので、死者の国の王とされます。ただし、その国は地獄ではなく天上界にあり、良いことをした人間だけが死後生まれることのできる世界でした。仏典でも、閻魔の王宮は広大で美しく豪華な例えとして使われています。
 これが時代と共に変化して地獄の主となってきました。そして大乗仏教になると、地獄は重大な罪を犯した者が死後に赴く世界と見なされるようになります。菩提心を抱かない者にも仏道を歩ませる方便として地獄を用いました。中国に仏教が伝わるとこの地獄の教えは民衆の間に受け入れられていきます。中国に古来からある道教と結びつき、閻魔は冥界の王とされ、閻魔大王や閻羅王となります。そして、中国で作られた仏教経典『閻羅王授記四衆逆修生七往生浄土教』では閻魔は地獄の裁判官になり、これが日本に伝わります。
 元来、地獄が菩提心を抱かせるための方便であるのなら、そこの王である閻魔が涅槃を願っていたというのも不思議ではないと言えそうです。》


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善星~3

しるべし、如来世尊、あきらかに衆生の断善根となるべきをしらせたまふといへども、善因をさずくるとして、出家をゆるせたまふ。大慈(ダイズ)大悲なり。
 断善根となること、善友にちかづかず、正法をきかず、善思惟せず、如法に行ぜざるによれり。いま学者、かならず善友に親近(シンゴン)すべし。
 善友とは、諸仏ましますととくなり、罪福ありとをしふるなり。因果を撥無(ハツム)せざるを善友とし、善知識とす。
 この人の所説、これ正法なり。この道理を思惟する、善思惟なり。かくのごとく行ずる、如法行なるべし。
 しかあればすなはち、衆生は親疏をえらばず、ただ出家受戒をすすむべし。のちの退不退をかへりみざれ、修不修をおそるることなかれ。これまさに釈尊の正法なるべし。
 

【現代語訳】
 知ることです。如来世尊は、明らかに善根を断つ人々を知っておいでになるのですが、そのような人でも、善因を授けるために出家を許されたのです。これは如来の大慈悲心からなのです。
 人々が善根を断つ原因は、善い友に親しまず、正法を聞かず、善い考えをせず、法のように行じないことにあります。今仏道を学ぶ人は、必ず善い友に親しみなさい。
 善い友とは、諸仏はいらっしゃると説く人であり、悪行には罪報があり 善行には福報があると教える人です。因果の道理を無視しない人を善い友といい、善い師というのです。
 この人の説く教えは正法であり、この道理を思惟することは善い考えであり、このように行じることは法に適った行いなのです。
 ですから人々の親疎を選ばず、もっぱら出家受戒を勧めなさい。その後の修行が続くか続かないかを顧みてはいけません。精進不精進を気に掛けてはいけません。これはまさに釈尊の説かれた正法なのです。
 

《禅師の解説です。以上のことから、まず、釈迦は、善星が将来不善を犯すであろうことはお見通しだったのだが、それでも、いや、むしろそれだからこそ彼の数少ない「善因」となるように出家をさせたのだ、ということが分かるではないか、…。
 したがって、また、道を学ぼうとする者は、「諸仏まします」と信じ、「罪福ありとをしふる」ような人と親しみ、出家に導いてもらわなくてはならないのだということも、わかるであろう、…。
 ということなのだから、出家である私たちは、衆生に対しては、「ただ出家受戒をすすむべし」、その後にその者たちの中には、仏道を捨てたり、仏道を怠けたりする者もでてくるであろうが、出家をするということ自体が「善因」になるるのだから、そういうことにこだわる必要はないのだ、と禅師は説きます。
 いい人が何時までもいい人であり続けることは難しい、「♪人間生きてりゃ いつか身につく 垢もある」、それはそれで仕方がない、その時のために、できるうちに出家受戒しておくがいい、それがいつか善因となるのだ、…。確かに「大慈大悲」だという気がします。
 今をよりよく生きることが仏法だ、と言ってしまうとひどく軽くなってしまいますが、深く広いところでそういうことなのでしょう。》


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2 善星~2

 善男子、善星比丘若し出家せずんば、亦善根を断じ、無量世に於いて、都(スベ)て利益(リヤク)無からん。今出家し已りなば、善根を断ずと雖も、能く戒を受持し、耆旧(ギキュウ)長宿有徳(ウトク)の人を供養し恭敬(クギョウ)し、初禅乃至四禅を修習せん。是を善因と名づく。
 是の如くの善因、能く善法を生ず。善法既に生ぜば、能く道を修習せん。既に道を修習せば、当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。是の故にわれ善星が出家を聴す。
 善男子、若し我善星比丘の出家受戒を聴さずんば、則(スナハチ)我を称して如来具足十力と為すことを得じ。
 善男子、仏は衆生の善法及び不善法を具足することを観たまう。是の人是の如くの二法を具すと雖も、久しからずして能く一切の善根を断じ、不善根を具せん。
 何を以ての故に。是の如くの衆生は、善友に親しまず、正法を聴かず、善思惟せず、如法に行ぜず。是の因縁を以て、能く善根を断じ、不善根を具す。」
 

【現代語訳】
 善男子よ、善星がもし出家しなかったならば、彼は善根が断たれて、未来永劫に利益が無いことであろう。今彼は出家しているので、善根を断つとしても、戒を保ち、先輩長老高徳の僧を供養し敬い、初禅から四禅までの禅定を修めるであろう。これを善因と呼ぶのである。
 この善因は善き法を生じるのである。善き法が生じれば仏道を修めることが出来るのである。仏道を修めれば阿耨多羅三藐三菩提(仏の無上の悟り)を得るであろう。それで私は善星の出家を許したのである。
 善男子よ、もし私が善星の出家を許さなかったならば、人々が私のことを褒めて、如来は優れた能力を具えているとは言わないであろう。
 善男子よ、仏は人々が善きものと善からざるものを具えていることを観察し知っている。この善星も、この二つを具えているが、そのうちにすべての善根を断って、不善の心を起こすことであろう。
 何故なら、このような人は善い友に親しむこともなく、正法を聞くこともなく、善い考えもせず、法のように行じないからである。これらの因縁によって、人は善根を断ち不善の心を生ずるのである。」と。
 

《出家を許した第一の理由は、世の中のためということでしたが、更にもう一つの理由を挙げます。
 仮に出家しないままでいて「善根」(仏になる可能性となる善い行い)を捨てたならば、仏になる一切の可能性を失うことになるだろう(以前、出家をしていれば、たとえ悪事を働いても、出家していたという功徳によって涅槃に導かれる、とありました)、…。
 そしてもし私が彼の出家を許さなかったら、人々は、かえって私に「十力」(「如来の有する十種の力である。その中の第四に、衆生の機根の上下優劣を知る力があり、いまは、そのことをいう・『全訳注』)がなかったと考えるだろう、…。もちろんこのことは、釈迦が自分の名誉のためにしたことだと言っているのではなく、普通の人が見ても明らかに必要なことであったのであり、それほどに出家ということは尊いことなのだ、と強調しているわけでしょう。
 「衆生の善法及び不善法を具足する」というのは、当たり前のことなのですが、考えてみれば、善不善を考えなくてはならないのは人間だけで、他の動物においては、そのことは全て本能の中に組み込まれている、いわば「万法に証せられ」ているわけです。人間だけが、その正しい判別をするための努力をしなくてはならないというのは、そこにこそ人間として生きる意味合いがあるとは言え、まことに痛切なことです。
 もし、他の動物と同じように、生き方における過ち(不善)ということがなかったら、人間はどのような生き方をするのでしょうか。いや、これは別の問題です。
このエピソードに対して、以下、禅師の解説があります。》

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1 善星~1

 如来般涅槃(ハツネハン)したまふ時、迦葉菩薩、仏に白(モウ)して言(モウ)さく、「世尊、如来は諸根を知る力を具足す、定めて善星(ゼンショウ) 当に善根を断ずべきを知りたまへり。何の因縁を以てか、其の出家を聴(ユル)したまえる。」
 仏の言(ノタマ)はく、「善男子、我往昔に於いて、初め出家せし時、吾弟難陀(ナンダ)、従弟阿難(アナン)、調達多(チョウダッタ)、子羅睺羅(ラゴラ)、是の如くの等輩(トモガラ)、皆悉く我に随って出家修道せり、我若し善星の出家を聴さずんば、其の人次に当に王として王位を紹(ツ)ぐことを得ん。其の力自在にして、当に仏法を壊すべし。是の因縁を以て、我便ち其の出家修道を聴せり。
 

【現代語訳】
 釈迦如来が般涅槃(仏が亡くなること)される時、迦葉菩薩は仏にお尋ねになりました。「世尊よ、如来は人々の能力 性質を知る力を具えておられます。ですから、きっと善星が自ら善根を断つことを知っておられたことでしょう。それなのに、なぜ善星の出家を許されたのでしょうか。」
 仏が答えて言うには、「善男子よ、私が昔出家した頃、我が弟の難陀、従弟の阿難や提婆達多、子の羅睺羅など、これらの者たちが、皆私に従って出家し修道したのである。私がもし善星の出家をゆるさなければ、彼は次に王位を継ぐことになったであろう。そうなれば、彼はその力を思うままにして、仏法を壊してしまうであろうと考えたのである。それで私は善星の出家を許したのである。
 

《この章は、全文が漢文で、「大般涅槃経」の一節の引用(『全訳注』)で、摩訶迦葉の問いに釈迦が答えた話です。
 突然話が変わりますが、「善星」は、釈迦が皇太子の頃にもうけた三人の息子のひとりのようです(上の二人は、優波摩那と羅睺羅・「weblio辞書」)。そして、「仏弟子の一人で、また四禅比丘という。よく四禅にまでいたったが、悪友に交り、ために仏に悪心をいだいて無間地獄におちたという」(『全訳注』)という人です。
 迦葉の問いは、普通には釈迦の失敗を批判する、ないしは嫌みを言っていることになりそうですが、彼にはそういう気持ちは毛頭なく、純粋な疑問として、さらにはきっと何か自分たちの思い及ばない配慮・洞察があるに違いないと考えて、教えを乞うという意味での問いなのでしょう。
 釈迦は、善星が「善根を断ずべき」ことを予見できなかったのではなく、それを予見した上で、彼をそのままにしておくと王位に就くことになって、そうすると、「其の力自在にして、当に仏法を壊すべし」と考えたので、出家させた方がよいと考えたのだと語ります。いささか不純な理由と考えられますが、出家という絶対的価値の前には、このくらいのことは問題ないのでしょう。以下更に詳述されます。》


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3 臨済院義玄禅師曰く

 鎮州臨済院義玄禅師曰く、「夫れ出家は、須らく平常真正(ビョウジョウシンショウ)の見解(ケンゲ)を辨得し、辨仏、辨魔、辨真、辨偽、辨凡、辨聖(ベンショウ)すべし。若し是の如く辨得せば、真の出家と名づく。
 もし魔仏辨ぜざれば、正に是一家を出でて一家に入るなり、喚んで造業(ゾウゴウ)の衆生と作(ナ)す。未だ名づけて真正の出家と為すことを得ず。」
 いはゆる平常真正見解といふは、深信(シンジン)因果、深信三宝等なり。辨仏といふは、ほとけの因中果上の功徳を念ずることあきらかなるなり、真偽凡聖をあきらかに辨肯するなり。もし魔仏をあきらめざれば、学道を阻壊(ソエ)し、学道を退転するなり。
 魔事を覚知してその事にしたがはざれば、辨道不退なり。これを真正出家の法とす。いたづらに魔事を仏法とおもふものおほし、近世の非なり。学者はやく魔をしり、仏をあきらめ修証すべし。
 

【現代語訳】
 鎮州の臨済院義玄禅師が言うことには、「そもそも出家者は、必ず平常が真実であるという見解を会得して、仏を見分け、魔を見分け、真実を見分け、虚偽を見分け、凡夫を見分け、聖人を見分けなければならない。もしこのように見分けることが出来れば、真の出家と呼ぶことができる。
 もし魔と仏を見分けられなければ、まさに家宅を出てまた家宅に入ることになろう。このような人を業をつくる衆生と言うのである。それでは真の出家と呼ぶことは出来ない。」と。
 いわゆる「平常が真実であるという見解」とは、深く因果の道理を信ずることであり、深く三宝(仏と法と僧)を信ずること等です。又仏を見分けるとは、仏になる修行の中で、本来成仏の功徳を念ずることであることは明らかです。それで真実、虚偽、凡夫、聖人を明白に見分け知るのです。もし魔と仏を明らかにしなければ、学道は阻害されて修行を退くことになるでしょう。
 魔を知ってそれに従わなければ、仏道修行を退くことはないのです。これが真の出家の法なのです。徒に魔を仏法と思う者が多いことは、近頃の誤れるところです。仏道を学ぶ者は早く魔を知り、仏を明らかにして修行しなさい。
 

《「平常真正の見解」を、ここでは「平常が真実であるという見解」としており、諸注は、「ごくあたりまえの正しいものの見方」(『提唱』)、「平常のことの正しい見方考え方」(『全訳注』の訳ですが、こちらは意味がよく分かりません)としていて、異なりますが、続けて「辨仏、辨魔、辨真、辨偽、辨凡、辨聖すべし」とあるのを見ると、「平常が真実である」というのとは少し違うように思われます。
 「魔仏辨ぜざれば、正に是一家を出でて一家に入るなり」もおもしろい言葉で、この場合、「家」は一つの妄念のことを言っているようです。仏魔、真偽、凡聖を「辨」ずることができなければ、何かを考えても一つの妄念から次の妄念に移るだけのことだ、…。
 そして禅師は「いはゆる平常真正見解といふは、深信因果、深信三宝等なり。(例えば)辨仏といふは因中果上の功徳を念ずることあきらかなるなり」と言います(ここの訳、『全訳注』も二つの文を「また」で繋いでいますが、私は「例えば」と入れてみましたが、どうでしょうか)。
 「因中果上の功徳を念ずる」は、「『因中』というのは、まだ真実を得る前の仏道修行の過程にあること」、「『果上』というのは、仏道修行が行われて、仏道修行の成果に到達したという境地」(『提唱』)で、それぞれの時の仏の姿を思い描いてみる、ということのようで、そうすることで仏というものを「辨」じ、それに伴い翻って「魔」を「あきらめ」ることが必要なのだと説かれているようです。
 ところで、仏魔、真偽、凡聖を「辨」ずる、とありますが、これは、前節の続きで言えば、それぞれ個別に順次「辨」じていくのではなく、その中の一つのこと、またはこれ以外の何かのことが「辨」ぜられれば、他のことも自動的に「辨」ぜられるものだと理解するのがよいように思われます。》


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