『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

一 龍樹「大智度論」1

2 居家戒~2

 復(マタ)次に居家は、憒閙(カイニョウ)にして多事多務なり。結使(ケッシ)の根、衆罪(シュザイ)の府なり。是を甚だ難しと為す。
 若し出家せば、譬へば人有りて出でて空野無人の処に在りて、而(シカ)も其の心をにし、無心無慮なるが若し。内想既に除こほり、外事亦去る。偈(ゲ)に説くが如し。
「閑(シズカ)に林樹の間に坐して、寂然(ジャクネン)として衆悪を滅す。
 恬澹(テンタン)として一心を得たり、斯(コ)の楽は天の楽に非ず。
 人は富貴の利、名衣(ミョウエ)、好(ヨ)き牀褥(ショウニク)を求む。
 斯の楽は安穏に非ず、利を求るに厭足(エンソク)無し。
 衲衣(ノウエ)にして乞食(コツジキ)を行ず、動止心常に一なり。
 自ら智慧の眼を以て、諸法の実(ジツ)なることを観知す。
 種々の法門の中に、皆以て等しく観入す。
 解慧(ゲエ)の心寂然として、三界に能く及ぶもの無し。」
 是を以ての故に知りぬ、出家して戒を修し行道するを甚だ易しと為す。
 

【現代語訳】
 また、在家の生活は騒がしく多忙であって、煩悩の起きる根源であり、多くの罪の集まる場所である。これらのことが 在家の仏道をはなはだ困難にしている理由である。
 もし出家したならば、例えば 人が外に出て人気のない広い野原に座り、その心を一つにして 何も思い煩うことがないようなものである。心の煩悩は除かれ、世事からも離れ去っている様は、次の詩に説かれている通りである。
「静かに林間に坐して、安らかに自らの諸悪を滅ぼし、
 恬淡とした一つの心を得ている、この楽は 天上の楽に勝る。
 人は財産や地位、快適な生活を求めるが、
 これらの楽しみは安穏ではない。なぜなら、利益を求める心には際限がないからである。
 僧は、質素な袈裟を着けて家々に食を乞い求め、日常心を一つに整えている。
 自らの智慧の眼によって、すべての物事が真実であることを明らかに知り、
 仏の様々な教えの中に、皆等しく 身も心も投げ入れている。
 解脱の智慧の心は安らかで、この世に及ぶものはない。」
 これによって理解されることは、出家して戒を修め仏道修行するほうが、在家の場合よりも 甚だ容易ということである。
 

《龍樹の答えが続きます。
 出家功徳の第二は、心の平安が得やすいということのようですが、しかし、そうかといって、現実には、出家さえすれば誰でもがここにあるようにあり得ると考えるのは、いささか甘いと言うべきで、そうではないところに問題があります。
 と言うよりも、むしろ逆に、この偈にあるような境地を楽しむことができる人は、出家するのがよい、といったぐらいではないでしょうか。
 それが可能な人でも、その多くは、それなりの生活がしていけるなら、という前提が必要で、「衲衣にして乞食を行ず」という日常において可能な人は、多いとは言えないでしょう。「乞食」が可能なのは喜捨する人があってのことで、「乞食」する人だけの世界では、乞食は成り立たないという問題がありそうです。
 また、もともとこういう境地を楽しむことが可能な人以外の人がこういう境地を求めようとすると、その目的のために相応の修行をしなくてはならないでしょう。それが生やさしいものではないことは、さまざまに残っているエピソードからも推し量ることができます。
 私の父は昭和十二年に永平寺に入ったのですが、ほんの数ヶ月で脚気と顔面神経痛を患って療養に下がらねばならなかったそうですが、特に脚気はまれな例というわけでもなかったようです。
 その後数ヶ月の療養を経て復帰した父は、一方で、そこで得られた経験(境地)は、他では得られない、そして何物にも代えがたいものとして生涯大切にして、普通の人よりも清廉清浄にして閑雅な精神を盛っていたと思いますが、私たちを育てなくてはならなかったということもあって、とても「無心無慮なるが若し」とはいかなかったように思います。
 ただ、人間世界は多くのそういう人によって成り立ち得ているわけで、そのことを仏法はどう考えるのか、そういう気持ちが抜けません。》

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1 居家戒~1

 「出家功徳」巻は、『全訳注』では第七巻の最後に載せていて、その内容を「おそらくは、先に永平寺において衆に示された『出家』の巻(同じく第七巻所収)の加筆拡大されたものと見てよいのではないか」と言っています。
 その「出家」巻は、同巻の「開題」によれば、「どうやら、永平寺においての『正法眼蔵』の示衆の最後のものであり、さらにいうなれば、それは、永平寺において衆に示された『正法眼蔵』の唯一の巻であるように思われる」のだそうです。
 

 龍樹菩薩言(ノタマハ)く。
 問うて曰く、居家戒(キョケカイ)に若(シタガ)へば、天上に生ずることを得、菩薩の道(ドウ)を得、亦涅槃を得(ウ)、復何ぞ出家戒を用いんや。
 答へて曰く、倶(トモ)に得度すと雖も、然も難易有り。居家は生業種々の事務あり。若し道法に専心せんと欲せば、家業則ち廃(スタ)。若し専ら家業を修すれば、道事則ち廃る。取らず捨てずして、能く応に法を行(ギョウ)ずべし、是を名づけて難しと為す。
 若し出家なれば、離俗して諸の忿乱(フンラン)を絶し、一向専心に行道(ギョウドウ)せん、易しと為す。
 

【現代語訳】
 龍樹菩薩が言うことには、
 誰かに、「仏の教えでは、在家の戒に従えば天上界に生まれることも、菩薩の道を得ることも、また涅槃(煩悩の火を吹き消すこと)を得ることも出来るという。それなら、なぜ出家の戒を用いるのか。」と問われれば、
 私は答える。在家戒であれ出家戒であれ、どちらも生死を解脱できるが、そこには難易の違いがある。在家には生業や様々な務めがあり、もし仏道に専心しようとすれば家業が廃れ、もし専ら家業に励めば仏道が疎かになる。そこで両方を取らず捨てずして仏法を実践しなければならない。これが難しいのである。
 もし出家であれば、世俗を離れて世の煩いを断ち、専心に仏道修行するので容易なのである。
 

《ここから第三章の終わりまで、原文は漢文で、『全訳注』によれば、龍樹の「大智度論」からの引用だそうです。
 初めがちょっと紛らわしいのですが、龍樹自身が誰かに冒頭のように問われたら、と仮定して、自分の考えを「答へて曰く」以下に述べる、という形をとっていて、その第三章の終わりまでが、まるまる初めの「龍樹菩薩言く」(ここでは「のたまはく」と読んでありますが、著者自身のことですので、『全訳注』のように「いはく」と読む方がいいように思います)の内容ということになります。
 さて、以下、出家の功徳のいくつかが語られるのですが、ここはその第一で、出家した方が修行しやすいという、いたって分かりやすい話で、それは確かにそうだろう、という感じです。
 在俗のままでは、修行しようと思っても、世事に紛れて満足なことはできないのに比べて、出家すれば一意専心、思いのままになります。
 それにしても、「道法に専心せんと欲せば、家業則ち廃る」とは、大変に現実的な話ですが、「家業」を放棄しなければ得られないような「涅槃」とは、一体どういうものかという疑問が生まれます。出家を勧めながら、実は、実際に出家する人はごく一部に過ぎないということが大前提での教えのように思えるのですが、…。


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