『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

受戒

作法 3 十戒

善男子、汝 既に三聚清浄戒(サンジュショウジョウカイ)を受けたり。応に十戒を受くべし。
是れ乃ち諸仏菩薩清浄の大戒なり。

第一、不殺生。 汝今身
(コンジン)(ヨ)り仏身に至るまで、此の戒能く持(タモ)つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
第二、不偸盗(フチュウトウ)。 汝今身従り仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
第三、不貪婬(フトンイン)。 汝今身従り仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
第四、不妄語。 汝今身従り仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
第五、不酤酒(フコシュ)。 汝今身従り仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
第六、不説在家出家菩薩罪過。 汝今身従り仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
第七、不自讃毀他(フジサンキタ)。 汝今身従り仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
第八、不慳法財(フケンホウザイ)。 汝今身従り仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
第九、不瞋恚(フシンイ)。 汝今身従り仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
第十、不謗三宝(フボウサンボウ)。 汝今身従り仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
上来十戒、一一犯すことを得ざれ。汝 今身従り仏身に至るまで、此の戒 能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
是の事、是の如く持つべし。(受者礼三拝)
上来三帰、三聚浄戒、十重禁戒、是れ諸仏の受持したまふ所なり。汝今身従り仏身に至るまで、此の十六支戒、能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
是の事、是の如く持つべし。(受者礼三拝)
 次に処世界梵(ショセカイボン)を作(ナ)し訖(オワッ)て云く。帰依仏、帰依法、帰依僧。
(次に受者 道場を出づ)

 この受戒の儀、かならず仏祖正伝せり。丹霞天然(タンカテンネン) 薬山高沙弥(ヤクサンコウシャミ)等、おなじく受持しきたれり。比丘戒を受けざる祖師あれども、この仏祖正伝菩薩戒うけざる祖師、いまだあらず。かならず受持するなり。

 正法眼蔵 受戒 

【現代語訳】
 今、入信の善男子は、既に三か条の清浄戒を受け終わりました。次には十戒を受けなさい。この戒は諸仏菩薩の清浄な大戒です。
第一、不殺生。生あるものを殺してはならない。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
第二、不偸盗。盗んではならない。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
第三、不貪婬。淫欲を貪ってはならない。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
第四、不妄語。うそを言ってはならない。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
第五、不酤酒。酒を売ってはならない。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
第六、不説在家出家菩薩罪過。他の罪過ちを説いてはならない。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
第七、不自讃毀他。自分をほめ他をそしってはならない。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
第八、不慳法財。世財法財を施すことを惜しんではならない。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
第九、不瞋恚。怒ってはならない。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
第十、不謗三宝。三宝(仏と法と僧)を誹謗してはならない。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
この十戒は、どれも犯してはなりません。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
これらの事を答えたように保ちなさい。(戒を受ける者は三拝する)
この三宝の帰依・三か条の清浄戒・十か条の禁戒は、諸仏が護持しているものです。あなたは今から仏になるまで、この十六か条の戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
これらの事を答えたように保ちなさい。(戒を受ける者は三拝する)
 次に処世界梵を唱え終わって言う。「仏に帰依す、法に帰依す。僧に帰依す。」
 (次に戒を受けた者は道場を出る)

 この受戒の作法は、必ず仏祖が正しく相伝して来たものです。丹霞天然和尚や薬山高沙弥和尚なども同じく受けて護持してきました。出家の具足戒を受けていない祖師はいましたが、この仏祖の正しく相伝した菩薩戒を受けていない祖師はおられません。祖師であれば必ず受けて護持しているのです。

《最後に、具体的な戒律十箇条が与えられ、受戒者の誓いがなされます。
 ちなみにキリスト教の十戒は次のようだそうです(サイト「クリスチャン メデイア オンライン」より 出エジプト記二十 三~一七)
第1戒 あなたはわたし以外に、ほかの神があってはならない。
第2戒 あなたは自分のために、偶像を造ってはならない。
第3戒 あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに口にしてはならない。
第4戒 安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。
第5戒 あなたの父と母を敬え。
第6戒 殺してはならない。
第7戒 姦淫してはならない。
第8戒 盗んではならない。
第9戒 あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。
第10戒 あなたの隣人の家を欲してはならない。
 ここの第1戒は仏法の第十戒に相当すると思いますが、まずその順番がおもしろく、まず第一に言うのか、最後に満を持していうのか、という違いでしょうか。
 またこちらには積極的排除の意識が感じられるのに対して、仏法の方は、あれほど厳しく「外道」を退ける言葉がありながら、とりあえず他の教えに対する意識が見えません。

 「受戒」おわり。


 とうとう、終わりになりました。最後に、「一百八法明門」巻を読んでみます。


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作法 2 三聚清浄戒

善男子(ゼンナンシ)、既に邪を捨て正(ショウ)に帰す、戒已に周円せり。応に三聚清浄戒(サンジュショウジョウカイ)を受くべし。
 

第一 摂律儀戒(ショウリツギカイ)。汝今身(コンジン)より仏身に至るまで、此の戒能く持(タモ)つや否や。
 答て云く、能く持(たも)つ。(三問三答)
第二 摂善法戒(ショウゼンボウカイ)。汝今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
第三 饒益衆生戒(ニョウヤクシュジョウカイ)。汝今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
上来(ジョウライ)三聚清浄戒、一一犯すことを得ざれ。汝今身より仏身に至るまで、此の戒能く持つや否や。
 答て云く、能く持つ。(三問三答)
是の事(ジ)是の如く持(タモ)つべし。
 (受者礼三拝して長跪(チョウキ)合掌す)
 

【現代語訳】
 今、入信の善男子は既に邪を捨て正道に帰依して戒を円満しました。次には三か条の清浄な戒を受けなさい。 

第一に摂律儀戒、一切の悪を行わないという戒である。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)

第二に摂善法戒、一切の善に努めるという戒である。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
第三に饒益衆生戒、一切の人々を利益するという戒である。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
この三か条の清浄な戒は、どれも犯してはいけません。あなたは今から仏になるまで、この戒をよく保つことができますか。
 (答えて言う)よく保ちます。(三回尋ね、三回答える)
これらの事を答えたように保ちなさい。
(戒を受ける者は三拝して長跪し、合掌する)
 

《続いて、師の方から根本となる三つの戒が授けられ、受戒者の誓いがあります。》

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作法 1 三帰依

その儀は、かならず祖師を焼香礼拝し、応受菩薩戒を求請(グショウ)するなり。
  すでに聴許せられて、沐浴清浄(ショウジョウ)にして、新浄の衣服(エブク)を著し、あるいは衣服を浣洗して、華を散じ、香をたき、礼拝恭敬(クギョウ)して、その身に著す。
  あまねく形像(ギョウゾウ)を礼拝し、三宝を礼拝し、尊宿を礼拝し、諸障を除去し、身心清浄なることをうべし。その儀、ひさしく仏祖の堂奥に正伝せり。
  そののち、道場にして和尚阿闍梨(アジャリ)、まさに受者ををしへて礼拝し、長跪(チョウキ)せしめて合掌し、この語をなさしむ。

 仏に帰依す、法に帰依す、僧に帰依す。
  仏陀両足尊に帰依す、達磨離欲尊に帰依す、僧伽(ソウギャ) 衆中尊(シュチュウソン)に帰依す。
  仏に帰依し竟(オ)わる、法に帰依し竟わる、僧に帰依し竟わる。
 如来至真(シイシン)無上正等覚(ムジョウショウトウガク)は是れ我が大師なり。我れ今帰依したてまつる。
 今より已後(イゴ)、更に邪魔外道に帰依せじ。慈愍(ジミン)したもうが故に、慈愍したもうが故に。

 (三たび説く。第三には慈愍故(ジミンコ)を三遍畳(カサ)ねる。)
 

【現代語訳】
 その作法は、始めに必ず祖師(受戒の師)に香を焚いて礼拝し、菩薩戒を受けたいとお願いするのです。許されたならば入浴して身体を清潔にし、新しい袈裟 又は洗い清めた袈裟に、花を散らして香を焚き、恭しく礼拝して身につけるのです。
 そして、あらゆる仏像を礼拝し、三宝(仏と法と僧)を礼拝し、長老の僧を礼拝して、様々な障害を除き、身心を清浄にするのです。その作法は、久しく仏祖の堂奥に正しく相伝されて来たものです。
 その後、道場に於いて戒を授ける和尚(受戒の師)は、戒を受ける者を教えて礼拝 長跪(両膝を地に着けて上体を立てる)させ、合掌してこの語を唱えさせます。 

 仏に帰依いたします、法に帰依いたします、僧に帰依いたします。
 人間の中の尊き仏に帰依いたします、欲を離れる尊き法に帰依いたします、人々の中の尊き僧に帰依いたします。
 仏に帰依し終りました、法に帰依し終りました、僧に帰依し終りました。
 まことの無上の悟りを得ている仏は、私の大いなる師です。私は今帰依いたします。
 今後、決して邪魔外道には帰依いたしません。どうか私を慈しみ憐れんで、この誓いをお受けください。
 
(三回となえる。三回目には慈愍故を三遍となえる。)
 

《受戒の作法が説かれます。まずは受戒する人からの意思表明ということのようです。
 文中、「仏陀両足尊」は「仏をいう。仏は両足を有する者のうち尊きこと第一だからである」、また、「達磨」はここでは、「法を意味する」(『全訳注』)のだそうです。》



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入法の最初に受戒あり

西天東地(サイテントウチ)、仏祖正伝しきたれるところ、かならず入法の最初に受戒あり。戒をうけざれば、いまだ諸仏の弟子にあらず、祖師の児孫にあらざるなり。離過防非(リカボウヒ)を参禅問道とせるがゆゑなり。
 戒律爲先(イセン)の言、すでにまさしく正法眼蔵なり。成仏作祖(サソ)、かならず正法眼蔵を伝持するによりて、正法眼蔵を正伝する祖師、かならず仏戒を受持するなり。仏戒を受持せざる仏祖、あるべからざるなり。
 あるいは如来にしたがひたてまつりてこれを受持し、あるいは仏弟子にしたがひてこれを受持す。みなこれ命脈稟受(ボンジュ)せるところなり。
 いま仏仏祖祖 正伝するところの仏戒、ただ嵩嶽曩祖(スウガクノウソ)まさしく伝来し、震旦五伝して曹谿高祖にいたれり。青原南嶽等の正伝、いまにつたはれりといへども、杜撰の長老等、かつてしらざるもあり。もともあはれむべし。
 いはゆる応受菩薩戒、此入法之漸也(シニュウホウシゼンヤ)、これすなはち参学のしるべきところなり。その応受菩薩戒の儀、ひさしく仏祖の堂奥(ドウオウ)に参学するものかならず正伝す、疎怠のともがらのうるところにあらず。
 

【現代語訳】
 インドや中国など仏祖が仏法を正しく相伝して来たところでは、必ず仏法に入門する最初に受戒があります。戒を受けなければ諸仏の弟子ではなく、祖師の児孫でもありません。過ちを離れ非を防ぐことが、禅を学び仏道を学ぶことであるからです。
 禅苑清規の「先ず戒律を守ること」という言葉は、まさしく正法眼蔵(仏法の真髄)なのです。仏となり祖師となる者は、必ず正法眼蔵を相伝し護持するので、正法眼蔵を正しく相伝している祖師は、必ず仏の戒を受けて護持しているのです。仏戒を護持していない仏祖は、ありえないのです。
 ある人は釈尊に従ってこの仏戒を受けて護持し、またある人は釈尊の弟子に従って仏戒を受けて護持しました。このようにして、皆仏道の命脈を受けて相承したのです。
 現在、仏や祖師方が正しく相伝するところの仏戒は、ただ嵩山の達磨大師一人によって伝来されたものであり、その後、中国で五代を経て曹谿の慧能禅師に至り、そして青原の行思禅師や南嶽の懐譲禅師などが受け継いで今に伝えられているのですが、真実の仏法を知らぬ長老などは、このことをまったく知らない者もいます。本当に哀れなことです。
 いわゆる禅苑清規の「菩薩戒を受けなさい、これは仏法に入る始めである。」という言葉は、仏法を学ぶ者が知っておくべきことです。その菩薩戒を受ける作法は、久しく仏祖の堂奥に学んだ者であれば、必ず正しく相伝しているものです。これは仏法を疎かにする者の得るところではありません。
 

《全ては受戒からであるという禅師の信念が語られます。
 特に目新しい発言ではありませんが、禅師の強い思いが感じられます。ちょっと多く語りすぎのような気もしますが、…。
 この受戒と、さらに印可ということがあるために、仏道者は必ず師に付かなければならない、ということが生じるのでしょう。》


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参禅問道は、戒律を先と為す

「受戒」巻は『全訳注』本の最後の巻です(後に「辨道話」が載っていますが、これは普通、『正法眼蔵』とは別の本とされています)。
 前の数巻と同様に制作年代未詳の巻のようで、同書は「開題」においてさまざまに検討して、建長五年(一二五三年)(八月に禅師遷化の年です)頃ではないかとしているようです(実は、結論の部分にある「その頃」というのがいつ頃を指すのか、ちょっと読み取りにくいのです)。
 

禅苑清規(ゼンエンシンギ)に云く、
「三世諸仏、皆出家成道(ジョウドウ)と曰ふ。西天(サイテン)二十八祖、唐土六祖、仏心印を伝ふる、尽く是沙門なり。蓋(ケダ)し毘尼(ビニ)を厳浄(ゴンジョウ)するを以て、方に能く三界に洪範たり。
 然れば則参禅問道は、戒律を先と為す。既に過を離れ非を防ぐに非ずば、何を以てか成仏作祖(ジョウブツサソ)せん。
 受戒の法は、応に三衣鉢具(サンエハツグ)、并(ナラビ)に新浄の衣物(エモツ)を備ふべし。新衣無からんが如きは、浣洗して浄(キヨ)からしむべし。入壇受戒には、他の衣鉢(エハツ)を借ることを得ざれ。
 一心専注して慎んで異縁あること勿れ。仏の形儀(ギョウギ)を像(カタド)り、仏の戒律を具し、仏の受用を得る、此れは小事に非ず、豈軽心なるべけんや。
 若し他の衣鉢を借れば、登壇受戒すと雖も、并(ナラ)びに戒を得ず。若し曾受(ソウジュ)せざれば、一生無戒の人たらん。濫(ミダ)りに空門に厠(マジワ)り、虚しく信施を消せん。
 初心の入道は、法律未だ諳(ソラ)んぜず。師匠言はざれば、人を此に陥(オト)さん。今茲(ココ)に苦口(クク)す、敢て望(モウ)すらくは心に銘すべし。
 既に声聞戒(ショウモンカイ)を受ければ、応に菩薩戒を受くべし。此れ入法の漸(ハジ)めなり。」
 

【現代語訳】
 禅苑清規に言う、
「三世(過去 現在 未来)の諸仏は、皆出家して仏道を成就するといわれる。またインドの二十八代の祖師や中国の六代の祖師など、仏の悟りを伝えてこられた方々は、すべて出家である。そもそも出家は戒律を厳守することで、まさに世間で模範となるべきものである。
 そのために、禅に参じて仏道を学ぶには、先ず戒律を守ることが大切である。過ちを離れ非を防ぐことなくして、どうして仏や祖となることができようか。
 出家受戒の作法は、先ず新しい三種の衣(袈裟)と鉢(食器)を用意しなさい。新しい衣がなければ、きれいに洗ったものを用意しなさい。戒壇で戒法を受けるには、他人の衣鉢を借りてはならない。
 また受戒する時には、心をそのことに集中して、決して散乱させてはならない。仏の姿をまねて仏の戒律を保ち、仏の生活法に従うことは、決して小事でないことを肝に銘じて、軽い気持ちで受けてはならない。
 もし他人の衣鉢を借りてしたならば、戒壇で戒を受けても、同じように戒を得ることは出来ないのである。もしそうしたのなら、もう一度戒を受けなければ、一生無戒の人となるであろう。みだりに仏門に身を置いて、空しく信者の施しを費やすことになるのである。
 仏道に入って間もない者は、出家の規則についてまだ知らない。師匠が教えなければ、人をこの過ちに落とすことであろう。そのために、今ここで苦言するのである。これを心に銘じることを切に願うものである。
 出家して声聞戒を受けたならば、次に菩薩戒を受けなさい。これが仏法に入る順序というものである。」
 

《まず「禅苑清規」からの引用です。その「第一」にある文章のようで(『全訳注』)、仏道者たる者の第一の心得ということになりましょうか。
 同書は以前にも出てきましたが、サイト「つらつら日暮らしWiki」によれば、「禅苑というのは、禅寺、禅林に同じであり、清規とは禅宗の軌範のことです。『禅苑清規』は現存する最古の清規になります。全10巻であり、宋の長蘆宗賾(生没年不詳。雲門宗・長蘆応夫の法嗣。崇寧年間[11021105]に洪済禅院に住す)によって記されました」というもののようです。
 ところで、このブログの底本とさせてもらっています「故・吉川宗玄 宗福二世中興雲龍宗玄大和尚」の作業になるサイト「道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試み」が、この巻を含めて残すところ二巻になっています。
 これまでは禅師の説くところを何とか自分なりに、または曲がりなりにでも、理解しようと、その読み取りの過程や私的な読み加えを書いてきましたが、これ以後、この巻も次の巻も、ほとんどが古経からの引用からなっており、または具体的な作法が説かれていて、私としては読んで承る以外にないように思われます。
 つきましては、以後、特に私自身の言葉を綴ることのほぼないままに、読み進めることになることお断りしておきます。
 ここは長い引用ですが、要点は、「参禅問道は、戒律を先と為す」こと、そして受戒に当たっては、「一心専注して慎んで異縁あること勿れ」ということ、であろうと思われます。
 以下、これについての禅師の言葉が続きます。》


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