しかはあれども、仏法に証入すること、かならずしも人天の世智をもて出世の舟航とするにはあらず。
 仏在世にも、てまりによりて四果を証し、袈裟をかけて大道をあきらめし、ともに愚暗のやから、癡狂の畜類なり。ただし、正信(ショウシン)のたすくるところ、まどひをはなるるみちあり。
 また、癡老の比丘黙坐せしをみて、設斎の信女(シンニョ)さとりをひらきし、これ智によらず、文(モン)によらず、ことばをまたず、かたりをまたず、ただしこれ正信にたすけられたり。
 

【現代語訳】
 しかしながら仏法を悟ることは、必ずしも人の世間的智慧をもって解脱の舟とするわけではありません。
 釈尊が世に在りし時にも、手まりで頭を打たれて四果の悟りを得た人や、戯れに袈裟を着けた縁で大道を明らかにした人がいましたが、皆、暗愚な者、狂痴な者でした。しかしながら正しい信心に助けられて、迷いを離れる道を得たのです。
 又、説法を請われた愚かな老僧が黙って坐っているのを見て、供養を設けた女性が悟りを開きました。これは智慧によるものでも、経文によるものでも、言葉を聞いたからでも、話を聞いたからでもありませんでした。ただ正しい信心に助けられたのです。
 

《なるほど我が国は文化の遅れた国ではあるけれど、そもそも仏法というものは、「人間界や天上界の才智を要するものではない」(『参究』)。
 「てまり」の話は『雑宝蔵経』にある話だそうです(同)。『参究』によって紹介しますと、ある熱心な求道者が、凡僧を大阿羅漢尊者だと誤解して、「私にも四果阿羅漢果(小乗仏教で、修行によって得られる悟りの位を四段階に分けたもの・コトバンク)を悟らせて下さい」と頼んだら、凡僧はその人を面壁させて背中に手まりをぶつけ、これが初果だと言った、是非第二果を、というので、またぶつけた、それを四回やったところ、その求道者が悟りを開いたと言い出した、で、釈迦のところに行って本当だろうかと尋ねると、「ただ自らの信ずる力であるぞ」と答えられた、という話です。
 「袈裟」の話は、「正法眼蔵・袈裟功徳巻」にある話ですので、そちらに譲ります。
 「癡老の比丘」の話は「正法眼蔵啓迪(けいてき)」という書物にあると『参究』が紹介しています。それによると、信心深い老婆が老凡僧を招いたのだったが、その僧はごちそうになっただけで、蒙昧のために説法の時になって何も言えず、赤くなって黙り込んでしまった、すると老婆は、「是法不可示、言辞相寂滅、言語同断心行所滅」こそ真の正法なのだと、悟りを得た、という話だそうです。
 このように、才智はいらないのだから、日本人でも大丈夫なのだ、ただ「正しい信心」さえあれば、…。》