芙蓉山の楷祖(カイソ)、もはら行持見成の本源なり。国主より定照(ジョウショウ)禅師号ならびに紫袍(シホウ)をたまふに、祖うけず、修表(シュヒョウ)具辞す。国主とがめあれども、師つゐに不受なり。
米湯(ベイトウ)の法味つたはれり、芙蓉山に庵せしに、道俗の川湊(センソウ)するもの、僅(オオヨソ)数百人なり。日食(ニチジキ)粥一杯なるゆゑに、おほく引去(インコ)す。師ちかふて赴斉(フサイ)せず。
【現代語訳】
芙蓉山の道楷祖師は、専ら行持実践の本源とすべき人です。国主から定照禅師号と紫衣を賜ったのですが、師は受けず、書をしたためて辞退しました。国主は咎めましたが、師は遂に受けなかったのです。
薄いお粥を頂いて修行する質素倹約な宗風は世に伝わり、師が芙蓉山に住すると、出家在家の者が四方から集まって、その数は数百人ほどにもなりました。しかし、日々の食事はお粥一杯なので、その多くは去って行きました。また、師は誓って在家のお斎には赴きませんでした。
《三十二人目のエピソードです。だいぶ終わりに近づいて、あと、この人を含めて四人です。
さて、この人は一〇四三年生まれと言います(『行持』)から、ここも一気に時代が下ってきました。
『行持』によれば、二十九歳で「具足戒」を受けて後、しばらくは山に庵を結んで「虎を友とした」と言われているそうです。
彼が宋の徽宗皇帝から定照禅師号と紫衣を賜るという話を受けたのは、晩年六十六歳の時のことでしたが、「利名を受けず」と断ったために、「皇帝の怒りを買い、淄州(山東省済南道)に流罪に処せられるに至った」そうで、「とがめあれども」はそのことを言っているのでしょう。
そう言えば、先日イチロー選手が国民栄誉賞の授与を辞退したという報道がありました。彼らしい逸話ですが、時の権力からのこうした好意(?)を拒否するのは、時代によっては、危険なこともあるのですが、彼がそういうことにならなかったのは、民主主義の世のありがたさであるわけです。もっとも、彼の場合、これが三度目だそうで、こういうことは二度が限度なのではないかという気がします。三度も推すという感覚は、何やら押しつけがましく、別の意図があるのではないかと思ってしまいます。
それはそれとして、この道楷は、流罪から幸いすぐに許されて故郷に帰った後、招かれて芙蓉山に住むことになったようです。
さて、彼のエピソードは、これが本題ではなくて、彼の語った長い垂示がそれなので、以下二十九章まで、それが綴られます。》