『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

サルトル

1 馬祖道一~1

 洪州江西(コウゼイ)開元寺大寂(ダイジャク)禅師、諱(イミナ)道一(ドウイツ)、漢州十方県人なり。南嶽に参侍すること十余載なり。
 あるとき、郷里にかへらんとして、半路にいたる。半路よりかへりて焼香礼拝(ライハイ)するに、南嶽ちなみに偈をつくりて馬祖にたまふにいはく、
「勧君(カンクン)すらく帰郷すること莫れ、
 帰郷は道(ドウ)行われず。
 並舎(ヘイシャ)の老婆子(ロウバス)
 汝が旧時の名を説かん。」
 この法語をたまふに、馬祖うやまひたまはりて、ちかひていはく、「われ生々(ショウジョウ)にも漢州にむかはざらん。」と誓願して、漢州にむかひて一歩をあゆまず。江西に一住(イチジュウ)して、十方を往来せしむ。
 わづかに即心是仏を道得するほかに、さらに一語の為人(イニン)なし。しかありといへども、南嶽の嫡嗣(テキシ)なり、人天(ニンデン)の命脈なり。
 

【現代語訳】
 洪州江西開元寺の大寂禅師(馬祖・バソ)は、名を道一といい、漢州十方県の人です。この師は南嶽懐譲(エジョウ)に仕えて学ぶこと十数年でした。
 ある時、郷里に帰ろうとして途中まで行くと、また引き返して焼香礼拝しました。そこで南嶽は偈を作って馬祖に与えました。
「君に勧める、帰郷してはならない。帰郷すれば仏道は行われない。家々の老婆が、お前の昔の名を呼ぶであろうから。」
 この詩を与えると、馬祖は敬い頂戴して、自ら誓って言いました。「私は今後、何度生まれ変わろうとも、故郷の漢州には向かいません。」と誓い、再び漢州に向かって一歩も歩むことはありませんでした。そして、専ら江西に住して、諸方の修行者が往来したのです。
 馬祖は、ただ即心是仏と説くだけで、他には何も説きませんでした。しかしながら馬祖は、南嶽の仏法の嫡子であり、人間界天上界の命となった人でした。
 

《時代がまた大きく後返りして八世紀の人、馬祖道一のエピソードです。この人はすでに五人目として語られたことのある人(『行持』上巻第八章2節)で、再度の登場ですが、一応三十三人目としておきます。先にはほんの数行の話でしたが、ここはしっかり語られます。
 まず、この節ですが、話の展開は分かりやすいのですが、二つ疑問が残ります。
 一つは、どうして「半路よりかへりて」ということになったのか、…。
 諸注、触れてくれませんが、わずかに『提唱』が「故郷に帰っているのも時間の無駄だ」とか「お寺にいて坐禅の修行をしていたほうがどうも自分に合っている」とか「感じたのかも知れない」と言います。
 そうだとすると、道一は故郷に帰る道中で、帰ることに疑問を抱いて、その答えを求めて師の前に現れたことになります。
 もう一つは、道一は、帰ろうと思ったときに、当然師に許可を求めたでしょうが、師は、後返りをしてきた弟子に「帰郷すること莫れ」と言うくらいなら、どうして初めにそれを言わないで、黙って帰したのか、…。
 この二つの疑問を解く道は、実は師は初めから帰ることに反対だったのだが、自分の方から一方的にそれを止めてしまうのはよくないと考え、かつ、道一が帰る道中で必ずや自分の行動に疑問を抱いて後返りしてくることを確信していて、その疑問を抱いたときに道を示してやるのがよいと考えていたのだ、というストーリーです。それならそうと語ってくれればよさそうなものだと思うのですが、…。
 ともあれ、道一は、修行と故郷へ帰ることの選択を迫られたわけです。
 ところでこの話は、『実存主義とは何か』(仏・サルトル)の中で語られている、よく知られたエピソードとよく似ています。慧能の話(上巻第八章1節)の中でも挙げましたが、それは、一人で母の世話をしていた青年がパルチザンに参加すべきではないかと、選択に迷って、サルトルに自分の道を尋ねたときに、サルトルは「あなたは完全に自由だ」と答えたという話でした。
 さて、…。

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1 六祖慧能

 六祖は新州の樵夫(ショウフ)なり、有識(ウシキ)と称しがたし。いとけなくして父を喪す、老母に養育せられて長ぜり。
 樵夫の業(ゴウ)を養母の活計とす。十字の街頭にして一句の聞経(モンキョウ)よりのち、たちまちに老母をすてて大法をたづぬ。
 これ奇代の大器なり、抜群の辨道なり。断臂(ダンピ)たとひ容易なりともこの割愛は大難なるべし、この棄恩はかろかるべからず。
 黄梅(オウバイ)の会(エ)に投じて、八箇月ねぶらずやすまず、昼夜に米をつく。夜半に衣鉢(エハツ)を正伝す。
 得法已後(イゴ)、なほ石臼をおひありきて、米をつくこと八年なり。出世度人説法するにも、この石臼をさしおかず、希世の行持なり。
 

【現代語訳】
 六祖大鑑慧能(エノウ)禅師は、もと新州の樵(キコリ)であり、学問があるとは言えません。彼は幼くして父を喪い、老母に養育されて成長しました。
 そして樵の業で母を養い生計を立てていました。ある日、街頭の十字路で経文の一句を聞いてから、にわかに老母を捨てて大法を探し求めました。
 この人は世にまれな大器であり、抜群の求道者でした。慧可が法のために臂を断つことはたとえ容易であるとしても、この情愛を断ち切ることは大変困難です。この恩愛を棄てる行いは、決して軽いものではありません。
 彼は、黄梅山大満弘忍禅師の道場に入って、八か月眠らず休まず昼夜に米をつきました。そして、弘忍禅師から夜半に衣鉢を譲り受け、正法を受け継いだのです。
 彼は大法を得た後も、なお石臼を背負って米をつくこと八年でした。世に出て人々に説法する時にも、この石臼を離さず、世にも希な修行をされた方でした。
 

《四人目は六祖大鑑慧能(六三八年― 七一三年)のエピソードです。
 「一句の聞経よりのち、たちまちに老母をすてて大法をたづぬ」というのは、『発心集』の讃州源太夫(第三の四話)や、追いすがる妻子を振り切って出家したという西行など、似た話がいろいろありますが、私としては、サルトルの『実存主義とは何か』で語られる、老母の世話とアルジェリア戦争への志願とに迷う若者に言ったという「あなたは完全に自由だ」という言葉が思い出されます。「一句の聞経」よりも「老母をすてて」の方が気になります。
 こういう話の場合、多く、老母は棄てられることになりますが、私自身の身で考えると、親孝行というよりも意志薄弱、求める心の薄弱さなのだと思いますが、そういうことはできそうにありません。自分ではできないままに、老母を選んだことで後に悔いを残すのは、それこそ親不孝というものなのだろうと思ってもみます。サルトルの言うように、自由とは恐ろしいことです。
 それが、慧能を含めてここに挙げた人たちにとっては、そういう「選択」の場面にいたのではないようです。「一句の聞経」の後は、彼らにとっては必然の一本道だったのでしょう。
 むしろ、そういう慧能を諸手を挙げて讃えてしまって、ほんとうにいいのだろうか、ということが、どうしても気になります。…、いや、そうすべきなのでしょうね。
 私には、天才にだけ与えられた名誉ある宿命のように思われて、凡人がその模倣をすることは、「老母」などへの冒涜であるような気がします。
 それもまた言い訳の口実のような気もしないわけではありませんが。
 軟弱は軟弱なりに、軟弱の中で生きよう、それもまた「行持」かも知れないと、しいて思うことにして、…。
 「この石臼をさしおかず」は、「衣鉢を正伝」した後も、つまり偉くなってからも、米をつくという下役の役目から離れず、弁道の一つとして務めた、ということなのでしょう。》

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