百丈山大智禅師、 そのかみ馬祖の侍者とありしより、入寂のゆふべにいたるまで、一日も為衆為人(イシュイニン)の勤仕(ゴンジ)なき日あらず。
 かたじけなく、一日不作(フサ)一日不食(フジキ)のあとをのこすといふは、百丈禅師、すでに年老臘高(ロウコウ)なり。
 なほ普請作務(サム)のところに、壮齢とおなじく励力(レイリキ)す。衆これをいたむ、人これをあはれむ、師やまざるなり。つひに作務のとき、作務の具をかくして、師にあたへざりしかば、師、その日一日不食なり。
 衆の作務にくははらざることをうらむる意旨(イシ)なり。これを百丈の、一日不作一日不食のあとといふ。
 いま大宋国に流伝(ルデン)せる臨済の玄風、ならびに諸方の叢林、おほく百丈の玄風を行持するなり。
 

【現代語訳】
 百丈山の大智禅師(百丈懐海禅師)は、以前、馬祖(馬祖道一禅師)の侍者を務めていた時から、亡くなる日の夕べに至るまで、一日たりとも修行者のために務めない日はありませんでした。
 かたじけないことに、「一日なさざれば、一日食らわず」という足跡を残したのは、百丈禅師がすでに長年修行を積み重ね、年老いてからのことです。
 師は老いても尚、皆で労働する時には、若い僧と同じように励まれたのです。修行僧はこれに心を痛め、人はこれを気の毒に思いましたが、師は止めようとしませんでした。そこで、とうとう労働の道具を隠して師に与えないようにすると、師はその日一日食事をしなかったのです。
 それは、修行僧の労働に加わらなかったことを残念に思っての事でした。
 これを百丈禅師の「一日なさざれば一日食らわず。」の足跡と言います。
 今、大宋国に広まっている臨済の宗風や、各地の禅道場では、その多くが百丈禅師の宗風を受け継いでいるのです。
 

《八人目、百丈懐海禅師(七四九年―八一四年)です。
 大変面白い、そしていい話です。ひたすら行持弁道に努めた人のようで、「一日不作、一日不食」ということを確立して生涯を終えました。入寂六十六歳とされます。
 さてその「一日不作、一日不食」にまつわるエピソードです。彼が年老いてなおあまりに務めに精励するのを見た弟子たちが高齢の彼の身を案じて、ある日彼の仕事の道具を隠してしまいました。
 その時の彼の当惑の姿が、日頃の彼の精励ぶりからして、目に浮かぶ気がします。おそらくすべてを自分の失念と考えて弟子に問うこともしないで、ひとり慌て戸惑い、といってばたばたと探し回ることもならず、また自責の方が先に立って軽く代わりの道具を使うことにも思い至らないままに、ついにつくねんと座り込んでしまった、といったところではないでしょうか。
 弟子たちは、その様子を物陰から見て、今日一日はお体を休めていただけると、作戦成功に満足するとともに、ほっとして顔を見合わせたことでしょう。
 ところが、その後老僧は食事を拒絶してしまいました。断固拒否したのでしょうか。いや、それではちょっと狭量に感じられます。恥じて食が喉を通らなかったのでしょうか、あるいうは、仕事をしなかったのだから当然と、淡々と「不食」だったのでしょうか。
 弟子たちは、思惑が裏目に出てかえって老僧の体によくないことになってしまったことを恥じながら、一方で、老僧の徹底した言行一致に感動を覚え、強烈な無言の教えを受けたのでした、というところでしょう。
 さまざまな人の姿が思い描かれる、大変面白い、そしていい話です。》