ただこれ、こころざしのありなしによるべし、身の在家出家にはかかはらじ。
 又ふかくことの殊劣をわきまふる人、おのづから信ずることあり。
 いはんや世務は仏法をさゆとおもへるものは、ただ世中に仏法なしとのみしりて、仏中に世法なきことをいまだしらざるなり。
 

【現代語訳】
 もっぱらこれは、志の有無によるものです。その身の在家出家には関係ありません。
 又この法は、深く物事の優劣をわきまえる人であれば、自ずから信ずるものです。
 まして世俗の務めは仏法を妨げると思う者は、ただ世の中には仏法が無いということだけを知って、仏法の中には世間の法がないことをまだ知らないのです。

 

こころざしのありなしによるべし」という言葉は、何気ない言葉ですが、前節の生真面目な答えから一転して、そういうことを問うのは、志がないということなのだと突き放しているように聞こえる、大変厳しい言葉です。
 次の「ふかくことの…」の一文も、志のある人は、坐禅を信じて、世事に忙しくて坐禅ができないのをどうしようかなどと考えないで、世事の中で寸暇を惜しんで坐るのだ、という意味になりそうです。
 そうなると法然の、目が覚めているときに念仏を唱えなさいと言ったのとまったく同じだと言えそうです。結局はそういうことで、忙しく出できないというのは、やる気がないということなのでしょう。
 ここの三つの文は、順を追って根本に帰って行く書き方になっているようで、「いはんや」以下は、そもそも「世務」と「仏法」を対立するものだという考え方が間違いだという話のようです。
 分かりにくいところですが、「世中に仏法なしとのみ知りて」は、世の中には仏法は無く、仏法を求めるなら「世務」を削らなくてはならない後とひとえに思い込んで、という意味で考えてはどうでしょうか。
 「仏中に世法なき」は、仏法では、修行とは別に世事があるとは考えないのだと言っているのであって、つまり「世務」であれ「仏務」であれ、全ての行いが仏法の修行だと考えるから、世事ということはないのだ、という意味ではないでしょうか。
 『参究』が「仏道修行のほかに、別に人間社会の仕事というものは一つもない」と読んでいますが、この解釈も、そういう意味かと思われます。
 ところで、ここの「いはんや」も意味がよく分かりません。普通には「まして」と訳しますが、ここは「それに、なによりもまず」というような言葉でつなぐと分かりやすいところだと思われます。この言葉は、古語の「まして」と同様に、往時、現在とは少し違った意味で考えられていたのではないでしょうか。そう思わされることがよくあるような気がします。》