とうていはく、「西天(サイテン)および神丹国は、人もとより質直(シツジキ)なり。中華のしからしむるによりて、仏法を教化(キョウケ)するに、いとはやく会入(エニュウ)す。我朝は、むかしより人に仁智すくなくして、正種(ショウシュ)つもりがたし。番夷のしからしむる、うらみざらんや。
 又このくにの出家人は、大国の在家人にもおとれり。挙世(コセ)おろかにして、心量狭小なり。ふかく有為(ウイ)の功を執して、事相の善をこのむ。かくのごとくのやから、たとひ坐禅すといふとも、たちまちに仏法を証得せんや。」
  

【現代語訳】
 問うて言う、「インドと中国は、人間がもともと質実正直です。世界の中心いうことで、仏法を教化するにしても、すぐに会得します。しかし、我が国は、昔から人に情けや智慧が少なく、正法の種子の広がりにくい所です。遠地の未開人のためであり、残念なことです。
 又、この国の出家人は、大国の在家人よりも劣っています。世を挙げて皆愚かで心は狭小です。深く世間の功利に執して、うわべの善を好んでいます。このような者たちが仮に坐禅したとしても、すぐに仏法を悟るものでしょうか。」
 

《第十八、最後の問答です。
 当時の日本人が中国インドをどのように見ていたかということがよく分かります。明治の人が西欧、英独仏を見るような気持ちだったでしょう。ただ、明治の人は、和魂洋才、魂、精神においては負けていないと思えたのでしたが、ここでは、「質直」、「仁智」、「挙世おろか」、「心量狭小」と、その精神面でも性格面でも劣っていると考えざるを得ない状況だったようです。
 明治の人が、おそらく武士道と江戸文化という独自の精神をバックボーンとして持ちながら西欧に向き合うことができたのに対して、平安末の人にとっての平安文化のほとんどは、その洗練ぶりにもかかわらず、根本においてまだ中国の模倣の域を出ないと考えざるを得なかったかったということなのでしょうか。
 これはもちろん禅師が自ら設定した問いなのですから、禅師自身、このように感じていた、ということなのでしょう。禅師の見た当時の南宋は、北方に台頭した金と一線を画して「漢文化の伝統を持ちながら、さらに高度な経済力を成長させ、(文化国家として)繁栄」(サイト「世界史の窓」)したようですから、一般的な大陸観以上に、禅師にとっては一種理想的な国情と見えたのではないでしょうか。インドについての禅師の知識がどれほど正確なものであったかは、保証の限りではないようです。
 インドにおける仏教については、「1203年、アフガニスタンから侵攻したイスラーム教国ゴール朝の軍隊によってヴィクラマシー僧院、ナーランダー僧院が破壊され、インドにおける仏教の繁栄は終わった」(同)とされるようで、このことを知れば、禅師の評価は、必ずしもそのままではなかったのではないかと思われます。
 それにしても、私たちの現代中国に対する感覚とのあまりに大きな懸隔に、その間に一体何が変わったのだろうという感慨を覚えます。》