しめしていはく、「しるべし、仏家には、教の殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし。草華山水にひかれて仏道に流入(ルニュウ)することありき、土石沙礫(ドシャク シャリャク)をにぎりて仏印を稟持することあり。いはんや広大の文字は万象にあまりてなほゆたかなり、転大法輪又 一塵にをさまれり。

【現代語訳】

教えて言う、「知ることです。仏家では、教えの優劣を議論せず、法の深浅を選ぶことはありませんが、但し修行の真偽を知りなさい。過去には草花や山水に引かれて仏道に入った人があり、土石砂礫を握って仏の悟りを受け継いだ人もあります。まして経典の広大な文字は、森羅万象の中に有り余って更に豊かであり、仏の大説法は、また塵一つの中にも収まっているのです。

 

《冒頭の答えは新鮮で、かつ明解です。「教えの優劣」や「法の深浅」は問わず、「修行の真偽」を問うのだ、というのが、「答えの要点」だ、と『参究』が言います。

 真言でも天台でも禅でも構わない、そういう法の教えではなくて、「草華山水」、「土石沙礫」に導かれて仏道に入った人さえあるのだから。

言葉で説く教えに意味があるのではなく、要はそこでどういう修行をするか、当人がその修行から何かをつかむことができるか、何をつかむか、が大切なのだ、ということのようです。

 「いはんや広大の文字は…」は、大自然の中に仏法を語る豊かな言葉があり、そこでは一粒の塵にも大説法が蔵されている、ということでしょう。

なるほど、そう言われれば、仏道に限らず、人が何かを覚るのは、直接そのことを言葉で教えられて覚ることよりも、ふとした時に一瞬ひらめきを感じるということが多いような気もします。

 例えば、言葉で無常を説かれるよりも、川の流れを見ていて急に無常を感じることがあるように、また、諄々と諭されるよりも、一発殴られたときに相手の優しさを感じることがあるように、です。

 考えてみれば、真言や天台の教えも、もともとはそのようにして覚られたものを後に体系づけたものなのでしょう。

もちろん言葉による教えも決して無駄なものではなく、それはいわば旅する上での地図、あるいは観光パンフレットのようなもので、それは誘いともなり、道案内、行った先のイメージ映像ではありうるのですが、しかし、結局のところは実際にそこに行ってみなければ、分かりません。もちろん行ってみても、見るべきものを見たという実感はなかなか得られませんが、たまたま日の光の差し具合や風の音に触発されて、ふと胸にしみるものを感じるときがあります。

 そのように、万象の中にその教えの根本はあるのであり、万象はありあまる文字(言葉)を蔵しているわけで、「塵一つ」が大説法を説くこともあるわけです。》