しめしていはく、「痴人のまへにゆめをとかず、山子(サンス)の手には舟棹(シュウトウ)をあたへがたしといへども、さらに訓をたるべし。
 それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道(ゲドウ)の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の辨道すなはち本証の全体なり。
 

【現代語訳】
 教えて言う、「痴人の前で夢を説いてはいけない、山の樵(キコリ)に舟と棹を与えても仕方がないと言いますが、更に教えましょう。
 そもそも修行と悟りは別のもので、一つではないと思うのは、外道の考えです。仏法では、修行と悟りは同一なのです。この坐禅も悟りの上の修行なので、初心の修行は悟りの全体なのです。
 

《愚かな人の前で「夢を説いてはいけない」というのが、なぜなのか解りません(『講話』は「利巧な人の前で」としていて、もっと解りませんが)。「夢」は、占いにもなるように、重要な意味を持つものだが、愚かな人はただ夢幻のたわいのない馬鹿げた話としか考えないから、というような考え方からなのでしょうか。
 「山の樵に舟と棹を与え」るというのは、「猫に小判」と『講話』は言いますが、キコリは猫扱いなのでしょうか。
 この前段は全体として、諸注いずれも、ものの分からない者に教えても仕方がないが、教えてやろうか、というような解釈で、そうだとするとせっかく道を問うている人(実在の人ではなく、禅師自身が仮に想定した人の話ではありますが)に対してずいぶん高飛車な、もっと言えばさげすんだ言い方で、気になります。
 後段が本題で、いわゆる「修証一等」の考えを述べたところで、『全訳注』が「道元の禅を理解する急処の一つであるから、じっくりと読んで、とくと理解されるがよい」と言っています。
 「いまも」が解りにくいのですが、『参究』が「いま訓える工夫弁道も」だと言います。また、「証上の修」(悟りの上の修行)についても、「本来われに完全にそなわっているところの、本証上の作用としての修行だということだ」と言います。自分の仏性を証す、つまり悟りを開くという流れの上にある坐禅であるから、ということでしょうか。
 『講話』もそうですが、こういう書物ではしばしば、原典に使われている言葉によらないで、一足飛びに筆者(講師)の理解したその概括的な趣旨を語ることが多く、禅師の考えなのか、語る当人の考えなのか疑わしい気がすることがあるのですが、こういうふうに逐語的に解釈を示してもらうと、こちらも一緒になって考えることができて、安心します。
 自分の仏性を証すという流れの中の坐禅であるから、初めて坐ったときから、悟りの道の中にあるのであって、坐禅は「証」の入り口であり、かつ全体であるのだ、…。
 将棋の世界では四段になって初めて棋士と呼ばれるのですが、三歳の子供が本気で勝ちたいと思って盤の前に坐ったなら、その子は職業上の棋士ではなくても、立派に名人と同じ世界に住む人である、といったようなことであろうかと思います。
 逆に、子供が戯れに口にした言葉がどれほどしゃれたものであろうとも、彼は決して詩人でないのです。》