あきらかにしりぬ、自己即仏の領解(リョウゲ)をもて、仏法をしれりといふにはあらずといふことを。もし自己即仏の領解を仏法とせば、禅師さきのことばをもてみちびかじ、又しかのごとくいましむべからず。
 ただまさに、はじめ善知識をみんより、修行の儀則を咨問して、一向に坐禅辨道して、一知半解(ハンゲ)を心にとどむることなかれ。仏法の妙術、それむなしからじ。」
 

【現代語訳】
 これによって明らかに知られることは、自己即仏(自己そのものが仏である)と理解することが、仏法を知ることではないということです。もし自己即仏と理解することが仏法であれば、禅師は前の言葉で則公を導かず、又このように戒めることもなかったでしょう。
 ただまさに、良き師に会ったならば、最初に修行の規則を尋ねて、ひたすらに坐禅修行して、わずかな知識や理解をも心に留めてはいけません。仏法のこの優れた方法は、空しくはないのです。」
 

《禅師によれば、則公の「火をもって更に火を求めるとは、自己をもって自己を求めるようなものである」(前節)という理解は、「自己即仏」(即心是仏と同じことを言っているようです)という考え方だとします。それは、人は本性として内に仏性が備わっているから、自分のありのままの姿がすなわち仏である、という考え方と言っていいでしょうか。しかし、それは間違っている、…。
 では、法眼は、あの清峰の言葉をどういう意味だと考えているのか。
 則公は、火を求める火の童子に、自分の姿を重ねて、自分の中にこそ求めるものがあるのだと解したようですが、法眼の理解は、すでに自分の持っているものをなお求めるのが「学人の自己」なのだ、ということではないでしょうか。
 先に「すでに仏正法をあきらめえん人は、坐禅なにのまつところかあらん」という問があり(第七問。第十二章)、そこで禅師は修証一等と答えていました。
 学ぶことは、自己に帰結して、それで終わりということではない、自己が仏だというのではない、その問い続ける姿こそが仏なのだ、ということです。
 子供に教えるような言い方をすれば、学ぶ人とは、そういう燃えるような意欲の世界を自分のものとすることだ(あるいはそういう意味で、「火」の童子を例にしたのでしょうか)、というようなことになりそうです。
 将棋の加藤一二三九段は若くから優れた棋士であったのですが、そのころある対局中に、一手に七時間考えたことがあるそうです。そして実は、その長考の間こそが、彼がもっとも純粋に棋士であるときだった、というようなことでしょうか。》