しかあるを、この一法に身と心とを分別し、生死と涅槃とをわくことあらんや。すでに仏子なり、外道の見をかたる狂人のしたのひびきをみみにふるることなかれ。」
 
【現代語訳】

 それなのに、この一つの法に於いて、身と心とを区別し、生死流転と煩悩の滅とを分けることがありましょうか。
 我々は、すでに仏弟子なのですから、外道の見解を語る狂人の話を聞いてはいけません。」
 

《初めの「この一法に」は、以上述べてきたような身心一如という教えがあるのに、ということでしょうか。
 たとえば一匹の犬は身と心を分けることはできず、その個体全体で一個の存在として他との関わりの中に生きているのであって、それは人間も同じである、となれば、生きているこの目の前の現実(「生死」)が全てであって、魂が風に乗ってそこらあたりを飛び回っているなどという、別の世界などあろう筈もないだろう、…。
 『講話』が六祖(慧能)風幡というエピソードを挙げています。「(僧たちが)風にはためいている旗について議論をしている。あれはいったい風が動いているのか、旗が動いているのか、…旗は目に見える具体的事物、風はそういう事物を支配している目に見えない力ということですね、…六祖が『風が動くのでもない、旗が動くのでもない、あなた方の心が動くのではないか』と言ったのでみんなはショックを受けた」。
 何によって旗が動いているのか、それはただの「説明」に過ぎない、そこには、風が吹いており、旗がはためいているという事実があるだけだ、私たちには、現にいま生きているという事実があるだけだ、ということのようです。
 サイト「禅的哲学」がそのことを大変分かりやすく語ってくれています。
 いわく、天動説にしろ地動説にしろ、慧能大師に言わせれば、頭の中で天や地を動かしているだけであるということなのである。実際はどうかと言うと「見た通り」なのだ。朝は東の山の端から昇る朝日に手を合わせ、そして西の海に沈む夕日に感じ入る。それこそが世界の実相であり、平常底に生きるということなのだ。天動説や地動説をバカにしているわけではない。もちろん科学者はそういうことに徹底的にこだわるべきなのだが、世界の実相というものはそこにはないということを、わきまえねばならないということなのである、…。
 身と心を分けて考えるのも、一つの考え方ではあるが、それは「考え方」に過ぎず、実実相は、総体としての一個の世界があるだけなのだ、ということのようです。》