ちかごろ大宋に、馮相公(ヒョウ ショウコウ)といふありき。祖道に長ぜりし大官なり。のちに詩をつくりて、みづからをいふにいはく、
公事(クジ)の余(ヒマ)に坐禅を喜(コノ)む、
 曾(カツ)て脇を将(モツ)て牀(ショウ)に到して眠ること少(マレ)なり。
 然も現に宰官の相(ショウ)に出(イズ)ると雖も、
 長老の名、四海に伝わる。
 こ0れは、官務にひまなかりし身なれども、仏道にこころざしふかければ得道せるなり。他をもてわれをかへりみ、むかしをもていまをかがみるべし。
 大宋国には、いまのよの国王大臣、士俗男女、ともに心を祖道にとどめずといふことなし。武門、文家、いづれも参禅学道をこころざせり。
 

【現代語訳】
 最近、大宋国に馮という宰相がいました。仏祖の道に優れた高官です。後に詩を作って自ら述懐しました。
 「公務の余暇には坐禅を好み、横になって眠ることは少なかった。今は宰相になっているが、不動居士という長老の名が天下に知れ渡っている。」
 この人は、官務で暇のない身でしたが、仏道への志が深かったので悟りを得たのです。このような他の行跡をもって自己を顧み、昔をもって今の手本としなさい。
 大宋国では、今の世の国王や大臣、庶民の男女が、皆心を仏祖の道に寄せているのです。武人や文人の誰もが禅を学び仏道を志しているのです。
 

《第十四の問への答えが続きます。初めに「むかしいまをたづぬるに」とありました(前節)が、ここは「ちかごろ」の例で、前の「李相国防相国」の例に比べて、より具体的ということはありますが、同じ内容です。
 サイト「禅と悟り」によると、「仏教は唐末の武宗の大規模な排仏事件によって再起不能なまでの打撃を受けた。ただ禅宗だけが排仏事件をくぐり抜け全盛を続け宋代に引き継がれて行った」のだそうで、ここの話は、その時代のことなのでしょう。、十三世紀初めのころになります。
 そして同サイトには「南宋の寧宗(在位:11941224)の頃には国家による保護と統制のための五山十刹制度ができた。…(それによって)中国(宋)の禅宗寺院は序列化し、国家による保護と統制下に入った」とあります。
 禅師の入宋はちょうどその頃で、禅師の目には、隆盛を極めているように見えたのでしょう。
 禅は特に士大夫に支持されたようですから、「世俗の務め」の例に「国王大臣」「武門、文家」が挙げられたのも、国家と仏法との関わりが語られるのも、そういう背景があることを考えれば、よく理解できます。そういう国家の中枢にいる多事多忙な人びとでも、「こころざし」さえきちんと持っていれば、道を得ることができるのだから、まして一般の人にそれができないなどということはないと言います。
 ただし、後の「行持」下巻の達磨大師の話の中では、宋代でも達磨が理解されていないとして嘆いている記述もあって(「行持下」第九章)讃歎一色というわけでもありません。》