いま仏祖の大道を行持せんには、大隠小隠を論ずることなく、聡明鈍癡(ドンチ)をいふことなかれ。
 ただながく名利をなげすてて、万縁に繋縛(ケバク)せらるることなかれ。光陰をすごさず、頭燃をはらふべし。
 大悟をまつことなかれ、大悟は家常(カジョウ)の茶飯なり。不悟をねがふことなかれ、不悟は髻中(ケイチュウ)の宝珠なり。
 

【現代語訳】
 今、仏祖の大道を行持するには、その場所が町の中であるか、深い山の中であるかは問題ではなく、その人が聡明であるか、愚鈍であるかは関係ありません。
 ただどこまでも名声や利益を投げ捨てて、あらゆる世間の縁に束縛されてはいけません。月日を無駄に過ごさず、頭に降りかかる火の粉を振り払う気持ちで修行しなさい。
 修行に於いて大悟を待ち望んではいけません。大悟とは我々の日常の茶飯そのものであるからです。それならばと、悟らないことを願ってはなりません。悟らないことは、自らの髻(モトドリ)の中の宝石を知らないことだからです。
 

《得道の仏祖は天衆、神道」(二十一章)から隔絶した存在であるという、宏智のエピソードのまとめの章です。
 「大隠小隠を論ずるなく」については『行持』が「小隠ハ陵藪(注・山野)ニ隠レ、大隠ハ朝市(注・朝廷と市場。人の集まるところ)ニ隠ル」という『文選』の言葉を挙げています。気になっていた「もとより(豊屋に)あらんは論にあらず」(第十九章)に通じる考え方で、やはりそうなのかと納得します。周囲の現実を破壊するのではなく、そのままに承認した上で、自分のできることを、できる限りのことをせよ、というのは、決して妥協するというわけではなく、理解できます。
 しかしその一方で、世俗と隔絶するのだから、「名利」や「万縁」とは断固として決別せよ、と言います。「豊屋」や「朝市」に身を置いてそれを実践するのは、大変な精神力を要するでしょう。いっそ、西行のように妻子を棄て家も棄てる方が楽かも知れません。
 ただここは、そういう比較を言っているのではなく、ひたすら名利や万縁を避けるべきことを強調している、ということなのでしょう。
 「不悟をねがふ」というのは変な言葉に見えますが、これもまた『行持』が『禅学大辞典』に「(不悟という語は)一般には悟らないことであるが、道元は、不悟を悟りにとらわれない悟りの徹底、大悟と同義に用いる」とあるとして、「悟り以上の悟り」と言います。
 大悟も不悟も実は「茶飯」であり「髻中の宝珠」、すぐ目の前、身近にあるのだが、それは大逆転の発想であるから、そうと気づくことは生やさしいことではなく、それは正に大悟であって、初めから一足飛びにそういう最高のものを求めようという夢のようなことを考えるのは、結果的には本気で求めるのではないに等しく、着実に一足ずつ歩みを続けよ、という、味わい深い真実を語っているように見えます。
 『徒然草』が、法然の、「念仏の時に眠くなって困るが、どうしたらいいだろうか」と問われて、「目の覚めたらんほど、念仏し給へ」と答えたという話を取り上げて、「いと尊かりけり」と言っています(第三十九段)。無理をせぬように、しかし怠らぬように、ということでしょうが、また、できないことを言い訳にしたがる甘え心を厳しく戒めてもいます。


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