2 おほよそ諸仏の境界は不可思議なり。心識のおよぶべきにあらず。いはんや不信劣智のしることをえんや。ただ正信(ショウシン)の大機のみ、よくいることをうるなり。不信の人は、たとひをしふともうくべきことかたし。

霊山になお退亦佳矣(タイヤクケイ)のたぐひあり。おほよそ心に正信おこらば、修行し参学すべし。しかあらずは、しばらくやむべし。むかしより法のうるほひなきことをうらみよ。

 

【現代語訳】

およそ諸仏の世界は不思議です。人の意識の及ぶ所ではありません。まして不信の者や智慧の劣る者は知ることが出来ないのです。仏法は、ただ正直な信心の大器のみ、入ることが出来るのです。不信の人は、たとえ教えても受け取ることは難しいでしょう。

釈尊が法華経を説かれた霊鷲山(リョウジュセン)の法会でさえ、不信の者は立ち去りました。およそ心に正直な信心が起きれば、修行して学びなさい。そうでなければ、暫く止めておきなさい。そして昔から法の潤いがなかったことを恨みなさい。

 

《「不信劣智のしることをえんや」と言われてしまっては、まことにもっともな話で、恐れ入るしかありません。

 何はともあれと坐禅をしているうちに信じる気持ちになってくる、というような甘いことを考えていてはだめで、まず信じること、そうして坐ること、であるようです。

 形から入る、というあり方もあるのではないかという気もしますが、それにしても、まずその形には何らかの意味があるのだろうと信じることが先なのでしょう。

 「退亦佳矣」は「退くもまた佳なり」です。信じないものは来なくてよい、信じて後、初めて修行せよ、信じられないのは、「法のうるほひ」を受けたことがないからなのであって、そのことを恨むしかないだろう、…。

思うのですが、人の苦悩は信じることができないことから起こるということもあって、何かを信じることができたら、すでにその苦悩の大方は片付いているような気もします。「鰯の頭も信心から」で、その鰯が仮に名利・恩愛であっても、それを信じている間は、彼はそれによって救われている、とも言えそうです。

しかしもちろんここではそういう考え方は否定されます。そういうものを信じても、いずれその救い(に見えたもの)は幻だったことに気づかざるを得ない、真正なものを信じよ、それが仏道であり、坐禅だ、その先に「心識のおよぶべきにあら」ぬ世界が広がっているのだ、と禅師は言っているようです。

納得のいくことでなければ信じない、というのが人間の知性・理性というものですから、やっかいなものです。しかしまた、逆に、納得がいったのなら、信じるも何もない、とも言えるわけで、どこかでそういう妙な循環を断ち切らねばならない、ということでしょうか。

ここにあるような説明を、『参究』にしても『講話』にしても、いかにもありがたそうに縷々語りますが、実は、この点こそが、もっとも詳細に語ってほしい点なのです、…。