『正法眼蔵』を読んでみます

      ~『現代語訳の試み』と読書ノート

超難解との誉れ(?)高い書『正法眼蔵』を読んでみます。
説いて聞かせようとして書かれたものである、
という一点を信じて、…。

早春を開く

2 爲山~4

 くのごとく行持しきたれりし道得を見聞す、身をやすくしてきくべきにあらざれども、行持の勤労すべき報謝をしらざれば、たやすくきくといふとも、こころあらん晩学、いかでかそのかみの潙山を目前のいまのごとくおもひやりてあはれまざらん。
 この潙山の行持の道力化功(ドウリキケコウ)によりて、風輪うごかず、世界やぶれず、天衆(テンシュ)の宮殿(グウデン)おだいかなり、人間の国土も保持せるなり。潙山の遠孫(オンソン)にあらざれども、潙山は祖宗なるべし。
 のちに仰山(ギョウザン)きたり侍奉(ジブ)す。仰山もとは百丈先師のところにして、問十答百(モンジュウトウヒャク)の鶖子(シュウシ)なりといへども、潙山に参侍して、さらに看牛三年の功夫となる。近来は断絶し、見聞することなき行持なり。三年の看牛、よく道得を人にもとめざらしむ。
 

【現代語訳】
 我々は、禅師がこのように行持して来たという話を見聞しました。これは身を正さずして聞くべき話ではないけれども、行持に力を尽して報恩感謝することを知らなければ、安易な気持ちで聞くことになるのです。しかし、心ある晩学後進ならば、どうして当時の潙山を目前に想像して感銘を受けないものでしょうか。
 この潙山の行持の道力教化の功徳によって、世界の根底は動かず、世界は壊れず、天人たちの宮殿は穏やかであり、人間の国土も保たれているのです。我々は潙山禅師の法孫ではありませんが、潙山禅師は祖先なのです。
 潙山禅師のもとへ、後に仰山が来てお仕えしました。仰山は、もと亡き師百丈禅師の所で、十問われれば百答える舎利弗(しゃりほつ)のような知恵者でしたが、潙山禅師にお仕えして、さらに牛(本来の自己)を見る三年の精進をしました。それは近来では絶えて見聞しない行持でした。牛を見る三年の修行は、言葉で言い表せないほど素晴らしいものでした。

《こうした潙山の行持の功徳は、そのお陰で「風輪(「仏教における須弥山世界を下から支えている三輪、あるいは四輪という大輪の一つ大地の下に存在する、円盤状をなしている、空気の層」・『行持』)うごかず、世界やぶれず、天衆の宮殿おだいかなり、人間の国土も保持せるなり」ということになっているほどだと言います。
 壮大な想像力ですが、『行持』が、この「行持上」巻の初めに「わが行持すなはち十方の帀地漫天、みなその功徳をかうむる」、「行持によりて大地虚空あり」(第二章)とあったことを指摘して、禅師の基本的考え方であることを示しています。私もそこでは「梅、早春を開く」ということを書いておきました(「行持 上」巻第三章2節)し、「辨道話」には「もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる」(第四章3節)とありました。
 個と全体は常に一体なのです。と言うか、個が全体を動かし、息づかせるのだという、大変美しい感覚が禅師にはあるようです。
 終わりに、百丈のところですでに優秀な弟子であった仰山が、その後この潙山の所に来て修行したというエピソードによって潙山の偉大さを語って、この話を結びます。》

 * 明日は、都合により、午後、投稿します。

にほんブログ村 本ブログ 古典文学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

2 華開葉落

 いまの華開葉落、これ行持の現成なり。磨鏡破鏡、それ行持にあらざるなし。

【現代語訳】
 今日の、花が開き、葉が落ちることも、日々の行持の姿です。自らの鏡を磨いて清浄にすることも、その清浄な鏡さえ割ってそれに捕らわれないようになることも、行持でないものはありません。
 

《「華開葉落」について『全訳注』が「いちおう、文字のままに訳しておくが、その真に意味するところは、それだけではあるまい」と言い、「例えば道元が好んで用いる句に『華開世界起』とある。『葉落』にもまたそれだけの意味がこめられているであろう」と言います。
 「華開世界起」は「梅華」巻にある言葉で、唐木先生の講義を思い出します。ノートに「梅開早春」とあって、これを「梅、早春を開く」と読んであります。春が来て梅が咲くのではない、梅が咲くことで世界が春となるのだ、…。
 文字通りの花が開き葉が落ちることが行持だというのは、行持というのはそういう日常的な、特別変わったことではない行いなのだというようなことになりそうですが、そこに「世界起」とあれば、まるで違った意味になるのではないでしょうか。
 『行持』が「華開葉落」の禅師における用例をいろいろ挙げて、同様に「華開」は「全世界の春が実現する、すなわち、真実の悟りの世界が実現する」の意と言い、「葉落」は菩提涅槃を意味すると言っています。
 結局はそういうことではあるのでしょうが、そういう結果よりもむしろ「華開」「葉落」ということ自体に意味がある、今行っていること、掃除なら掃除、食事なら食事、それがその人の全てであり、したがって、一輪の梅が全世界の春を集約し、または全世界に春を放射しているように、その掃除、食事は彼の全神経を集中し全エネルギーを投入して行われなければならない、…。それが「行持の現成」なのだということではないでしょうか。

プロフィール

ikaru_uta

カテゴリー
  • ライブドアブログ