あるいは天魔波旬等、行者をさまたげんがために、仏形(ブツギョウ)に化(ケ)し、父母(ブモ)師匠、乃至親族諸天等のかたちを現じて、きたりちかづきて、菩薩にむかひてこしらへすすめていはく、
「仏道長遠(チョウオン)久受(クジュ)諸苦もともうれふべし。しかじ、まづわれ生死を解脱し、のちに衆生をわたさんには。」
 行者このかたらひをききて、菩提心を退し、菩薩の行を退す。
 まさにしるべし、かくのごとくの説はすなはちこれ魔説なり。菩薩しりてしたがふことなかれ。もはら自未得度先度他の行願を退転せざるべし。
 自未得度先度他の行願にそむかんがごときは、これ魔説としるべし、外道説(ゲドウセツ)としるべし、悪友説としるべし。さらにしたがふことなかれ。
 

【現代語訳】
 或いは天界の悪魔などが、修行者を邪魔するために仏の姿に化けたり、父母や師匠、親族、諸天などの姿で現れて、菩薩を誘惑して言うには、
「仏道を成就する道は果てしなく遠く、久しく多くの苦を受けることは最も憂うべき事である。それなら先ず自分が生死輪廻を解脱して、その後に衆生(人々)を渡すに越したことはあるまい。」と。
 修行者は、この誘いを聞いて菩提心を退き、菩薩の行を退いてしまうのです。まさにこのような説は魔説であることを知りなさい。この魔説を菩薩は知って、それに従ってはいけません。そして専ら自未得度先度他(自らが悟りの浄土へ渡る前に、先ず他を渡す)の誓願を退かないようにしなさい。
 この自未得度先度他の行願に背くようであれば、魔説であると知りなさい。外道の説であると知り、悪友の説であると知って、決して従ってはいけません。
 

《『ファウスト』や『杜子春』が思い出される話です。
 ファウストは世界のすべてを知りたいという欲求に従ってメフィストフェレスの誘いを受け入れて、破綻していくのですが、グレートフェンの愛によって救済されます(実はあまりきちんと読んでいないのですが、およそそういうことだと思います)。
 杜子春は母の名を呼んだことによって現世に帰され、穏やかな後半生を送りました。
 西洋個人主義が流布して以来、自己の素直な心情こそが、人間の普遍的価値であると考えられている現代の感覚から見ると、ファウストの探究心という欲求も、また杜子春の華やかな生活や仙人生活への欲求も、そしてここの「天魔波旬」の諫めも、人の気持ちとしては至って自然で、「人間らしい心情」として、強く肯定されるものです。
 しかし、禅師は、そうした誘いは「こしらへすすめ」たものであって、それを断固拒絶せよと言います。そして「自未得度先度他」の行においてのみ、人は初めて真実の世界に入ることができるのだと主張します。あるいは、杜子春にとっての母親への孝心や、ファウストのグレートフェンへの恋は、自未得度先度他の意味を持ったのだと言えるのかも知れません。
 自分の求めようとするものにこだわれば、つまり自分の欲求(たとえそれが真実を求めたいという欲求であっても)にこだわれば、その欲求は限りのないものです。ファウストがそうであったように、杜子春も仮に仙人の下っ端になったとすれば、きっとさらに上を目指そうとしたであろう、というような意味ですが、そういう際限のない世界には、真実はないのであって、自分の欲求を断ち切ったところが「自未得度先度他」の行の世界だということなのかな、と思ってみます。》