かくのごとく行持しきたれりし道得を見聞す、身をやすくしてきくべきにあらざれども、行持の勤労すべき報謝をしらざれば、たやすくきくといふとも、こころあらん晩学、いかでかそのかみの潙山を目前のいまのごとくおもひやりてあはれまざらん。
この潙山の行持の道力化功(ドウリキケコウ)によりて、風輪うごかず、世界やぶれず、天衆(テンシュ)の宮殿(グウデン)おだいかなり、人間の国土も保持せるなり。潙山の遠孫(オンソン)にあらざれども、潙山は祖宗なるべし。
のちに仰山(ギョウザン)きたり侍奉(ジブ)す。仰山もとは百丈先師のところにして、問十答百(モンジュウトウヒャク)の鶖子(シュウシ)なりといへども、潙山に参侍して、さらに看牛三年の功夫となる。近来は断絶し、見聞することなき行持なり。三年の看牛、よく道得を人にもとめざらしむ。
【現代語訳】
我々は、禅師がこのように行持して来たという話を見聞しました。これは身を正さずして聞くべき話ではないけれども、行持に力を尽して報恩感謝することを知らなければ、安易な気持ちで聞くことになるのです。しかし、心ある晩学後進ならば、どうして当時の潙山を目前に想像して感銘を受けないものでしょうか。
この潙山の行持の道力教化の功徳によって、世界の根底は動かず、世界は壊れず、天人たちの宮殿は穏やかであり、人間の国土も保たれているのです。我々は潙山禅師の法孫ではありませんが、潙山禅師は祖先なのです。
潙山禅師のもとへ、後に仰山が来てお仕えしました。仰山は、もと亡き師百丈禅師の所で、十問われれば百答える舎利弗(しゃりほつ)のような知恵者でしたが、潙山禅師にお仕えして、さらに牛(本来の自己)を見る三年の精進をしました。それは近来では絶えて見聞しない行持でした。牛を見る三年の修行は、言葉で言い表せないほど素晴らしいものでした。
《こうした潙山の行持の功徳は、そのお陰で「風輪(「仏教における須弥山世界を下から支えている三輪、あるいは四輪という大輪の一つ大地の下に存在する、円盤状をなしている、空気の層」・『行持』)うごかず、世界やぶれず、天衆の宮殿おだいかなり、人間の国土も保持せるなり」ということになっているほどだと言います。
壮大な想像力ですが、『行持』が、この「行持上」巻の初めに「わが行持すなはち十方の帀地漫天、みなその功徳をかうむる」、「行持によりて大地虚空あり」(第二章)とあったことを指摘して、禅師の基本的考え方であることを示しています。私もそこでは「梅、早春を開く」ということを書いておきました(「行持 上」巻第三章2節)し、「辨道話」には「もし人、一時なりといふとも、三業に仏印を標し、三昧に端坐するとき、遍法界みな仏印となり、尽虚空ことごとくさとりとなる」(第四章3節)とありました。
個と全体は常に一体なのです。と言うか、個が全体を動かし、息づかせるのだという、大変美しい感覚が禅師にはあるようです。
終わりに、百丈のところですでに優秀な弟子であった仰山が、その後この潙山の所に来て修行したというエピソードによって潙山の偉大さを語って、この話を結びます。》
* 明日は、都合により、午後、投稿します。