2 しかのみならず、生死はすなはち涅槃なりと覚了すべし、いまだ生死のほかに涅槃を談ずることなし。
 いはんや心は身をはなれて常住なりと領解(リョウゲ)するをもて、生死をはなれたる仏智に妄計(モウケ)すといふとも、この領解知覚の心は、すなはちなほ生滅して、またく常住ならず。これ、はかなきにあらずや。
 嘗観すべし、身心一如のむねは、仏法のつねの談ずるところなり。しかあるに、なんぞこの身の生滅せんとき、心ひとり身をはなれて生滅せざらん。もし一如なるときあり、一如ならぬときあらば、仏説おのづから虚妄(コモウ)になりぬべし。又生死はのぞくべき法ぞとおもへるは、仏法をいとふつみとなる。つつしまざらんや。
 

【現代語訳】
 それだけでなく、生死流転はつまり涅槃(煩悩の滅)であると悟ることです。いまだ生死流転の他に涅槃(煩悩の滅)を説くことはないのです。
 まして、心は身を離れて常住であると理解することが、生死流転を離れた仏の智慧であると妄りに考えても、この理解し知覚する心は、依然として生滅して全く常住ではありません。これでは頼りにならないではありませんか。
 よく観察しなさい、身と心は一如である、という主旨は、仏法が常に説いていることです。それなのに、なぜこの身が生滅する時に、心だけが身を離れて生滅しないのでしょうか。もし一如の時があり、一如でない時もあれば、仏の説は自ずから虚妄になるでしょう。又、生死流転は除くべき法だと思うならば、仏法を厭う罪になります。慎まなければいけません。
  

《「身滅心常」などと身と心を区別してはならないというだけではなく、そもそも「生死」自体が涅槃なのだ、と強調します。ここの生死は、人生というような意味でしょう。死も含めて生きているその人の人生そのものが涅槃なのだ、という考え方は、身と心は一つなのだという考え方から自然に出てくる考え方だと言えます。
  涅槃の世界は、生きている私たちのすぐ横にあって、私たちがその入り口のノブに気がつきさえすれば、そこはドラえもんの「どこでもドア」のように、直ちにその場で開いてくれて私たちは涅槃の世界にいることになる、そういうイメージでしょうか。幸せの「青い鳥」は、実はさすらいの果てに帰ってきたチルチルとミチルの家の中にいたのです。
 それなのに、現実の身を離れたところに心だけの幸せの世界を求めたりしても、その心自体がまた「生滅」するのだから、それはなんとも「頼りにならない」話ではないですか、…。
 次の「嘗観すべし」を、『全訳注』は前段の終わりに付けています。確かに、この前後のどちらが「嘗観」にふさわしいかと読み直すと、前の方がいいような気がします。
さて そこで、そもそも体と心が一如であるというのは、どういうことなのかと考えてみます。普通には、体調によって心持ちのありようが違ってくる、気持ちの持ちようで、体調も変わってくる、気分がよければ食事も進むし、体に心配なところがなければ考えることも前向きになってくる、そういうことはあるでしょうが、それではあまりに現世的で、せいぜい医学の範囲の話であるように思われます。
 『講話』が次のところから考えるのがよいと言いますから、先に進みます。》