とうていはく、「出家人は、諸縁すみやかにはなれて、坐禅辨道にさはりなし。在俗の繁務は、いかにしてか一向に修行して、無為の仏道にかなはん。」
 しめしていはく、「おほよそ、仏祖あはれみのあまり、広大の慈門をひらきおけり。これ一切衆生を証入せしめんがためなり、人天たれかいらざらんものや。
 ここをもて、むかしいまをたづぬるに、その証これおほし。しばらく代宗(ダイソウ)順宗(ジュンソウ)の、帝位にして万機いとしげかりし、坐禅辨道して仏祖の大道を会通(エヅウ)す。
 李相国(リショウコク)、防相国(ボウショウコク)、ともに輔佐(フサ)の臣位にはんべりて、一天の股肱たりし、坐禅辨道して仏祖の大道に証入す。
 

【現代語訳】
 問うて言う、「出家の人は、様々な世俗の縁を速やかに離れて、坐禅修行に障害はありませんが、在俗の多忙な人は、どのようにして一途に修行し、無為の仏道にかなうことができましょうか。」
 教えて言う、「およそ仏や祖師方は、人々を哀れに思うあまりに、広大な慈悲の門を開いておかれたのです。これはすべての人々を悟らしめんがためなのです。ですから、人間界や天上界の中で、誰かこの門に入れない者がありましょうか。
 これについて古今を尋ねれば、その実証となる人は多いのです。例えば唐の代宗や順宗は、帝位にあって政務に多忙でしたが、坐禅修行して仏祖の大道を悟りました。
 また李宰相や防宰相なども、共に補佐の臣としてお仕えする天子の家来でしたが、坐禅修行して仏祖の大道を悟りました。
 

《第十四の問いで、大変現実的な問いです。
 『徒然草』第三十九段に法然上人に、念仏を唱えていて眠くなって困ることがあるが、どうしたらいいいか、と、同じようなことを尋ねた人があったとあります。その時の上人の答えは「目のさめたらんほど、念仏し給へ」というものだったそうです。
 この答えは、脇で聞いていれば笑ってしまいそうですが、『徒然草全注釈』は、その言葉について、「法然のやさしさ、柔らかさが好もしくとらえられて」いるが、「(この言葉の背後には)自己に可能なることを自覚せず、不可能事ばかりを障碍として考えたがる人間の弱さ・安易さを鋭く指示している」として、その厳しさに注目しています。
 言葉は一見優しく見えますが、その背景には法然の自らに対する厳しい覚悟があるのです(おこがましいのですが、拙サイト「徒然草~人間喜劇つれづれ」をご覧いただければ幸甚です)
 その答えに倣えば、ここでは、手が空いているときに坐りなさい、というようなことになると思うのですが、ここまでの禅師の答えは、多忙の中にありながら修行に努めた例を挙げるなどした、問いを真正面に受け止めての親切な答えで、なんとも生真面目です。上人はきっと洒脱な人だったのでしょう。》