とうていはく、「この行は、在俗の男女(ナンニョ)もつとむべしや、ひとり出家人のみ修するか。」
 しめしていはく、「祖師のいはく、仏法を会(エ)すること、男女貴賤をえらぶべからずときこゆ。」

 
【現代語訳】
 問うて言う、「この坐禅の行は、在家の男女も励むことが出来ますか、それとも出家の人だけが修行するものですか。」
 教えて言う、「祖師は、仏法を会得することに、男女や貴賤を選んではならないと説いています。」
 

《第十三の問答です。現代では考えられないような問いですが、実際、かつては(いや、実は現代でも)、女性差別はおそらくどの民族の中にもあった(ある)ことで、考えてみると不思議なことです。しかも、古代においては、女性が優位であったことも珍しいことではないにもかかわらず、です。
 夫婦という家庭内の関係においては、二人しかいないのですから、事によって誰かが主導的に決定していかなくてはならないこともあり、それはどちらかと言えば男性が担当することになることが多い、というのはありそうなことですが、一般社会では、男性的女性、女性的男性を含めて人は多いのですから、そこに男女差が生まれるというのは考えにくい気がします。
 ちなみにサイト「永井俊哉ドットコム・男社会はいかにして成立したのか」は、人間が自然を統治できるようになったときから、男性優位社会に移っていったと言っています。
 しかし、男性優位になったからといって、役割分担ができるのは当然としても、それが身分差別にまでなり、女性が男性より下位と見なされ、様々な権利が失われ、男性以上に束縛を受けることになるというのは、やはりどこかで、おかしな、しかし大きなステップを越えたのだっただろうと思います。
 ここのような問答がしかつめらしくなされている光景を想像ずると、何か大変滑稽な気がします。》