又しるべし、われらはもとより無上菩提かけたるにあらず、とこしなへに受用すといへども、承当することをえざるゆゑに、みだりに知見をおこすことをならひとして、これを物とおふによりて、大道いたづらに蹉過(シャカ)す。この知見によりて、空華(クウゲ)まちまちなり。

【現代語訳】

又知ることです、我々は元来、無上の悟りに欠けているわけではありません。永久にそれを使用しているのですが、会得することが出来ないために、気ままに考えを起こすことを習慣として、これをまことのものと追いかけることにより、大道を無駄に見過ごしてしまうのです。この考えによって、眼病の者が見る幻の花のように、人の見解は様々です。

 

《天台、真言の経典を学ぶことも坐禅同様に意味があるのではないかという問い(第九章1節)に対する答えの三点目です。

 ここは、私たちは生まれながらにして「無上菩提」(『参究』は「悉有は仏性だ」と言い、『全訳注』は「最高の智慧」と言います)を持っているのだから、何も経典に学ぶ必要はない、という立場からの話のようです。

 つまりそういう「無上の悟り」を本来持っているのだけれども、それに気づかないから、つまらぬ我流の考えを起こすという傾向が人間にはあって、その考えを実態だとして追い求めることによって、本筋を見失うのです。その結果、人びとはそれぞれにその「知見」の度合いによって、実態のない妄想を抱くのです、…。

 「物とおふ」は「物とおもふ」とする本もありますが、趣旨は同じでしょう。

 「空華」は「眼病患者が空中にちらちらと、なにか華のようなものが見えることをさす」(『参究』)もので、同書はここで「ありもしない自我という夢をどこからか拾ってきて、勝手に自他対立の世界をでっち上げ、そのでっち上げた世界のうえにおこす知識、見識だから、凡夫の知見はみな虚妄だ」と言います。

 「自我という夢」という言葉が、大変刺激的です。西欧において起こった近代は、「自我」の確立をこそ土台にして、その発展を見て来たのでしたが、ここにはそれに真っ向から対立する思考スタイルがあるようです。

 私はこの頃、日本人は、結局、西欧民主主義とか個人主義とかというものを理解できないで終わったのではないかという気がしています。そしてそれは、それが個人の自我の確率を基礎とするものであるのに対して、日本人の血の中に、自我とは「空華」だ、取るに足らないものだという感覚があって、根本的に異質なものであるからではないか、と考えています。

民主主義は、あたかも人類普遍の価値であるかのごとく思われています(特に日本人には)が、実は所詮、西欧という特定の風土のものに過ぎない、という感じがあります。

政治と思想は分けて考えなければならないにしても、東南アジアや中近東など世界で起こった民主主義政治を求めた戦いが、いったんは成功したように見えながら、多く、すぐに新たな強権的政治に収斂してしまうのも、それぞれの国で似たような事情があるのではないでしょうか。》