とうていはく、「仏家なにによりてか四儀のなかに、ただし坐にのみおほせて禅定(ゼンジョウ)をすすめて証入をいふや。」
 

【現代語訳】
 問うて言う、「仏祖の家門では、なぜ行住坐臥の四儀の中で、坐だけを取り上げてその禅定を勧め、悟りに入ると言うのですか。」
 

《第六の問いです。前節の答えを受けて、ということでしょうか、ではなぜ「坐」禅なのかという問いです。
 「四儀」は、「または四威儀という。行・住・坐・臥の四つがぴたりと作法にかなえる(ママ)ことをいう」(『全訳注』)のだそうで、「菩薩善戒経」にそのあり方が説かれているそうです(コトバンク)。
 行く、止まる、坐る、横になる、という四つの中で、特に「坐って」禅定に入ることに意義を置くのはなぜなのか、という問いで、これもなるほど、と思われる問いです。
 「禅定」は前段のとおり、「心を統一して三昧に入り寂静になること」。
 「行」は歩くことでしょうか。歩きながらものを考えるのはよいということも、よく言われます。比喩的に、あることをしようとするときに、実際のその活動しながら、そのやり方や意味を検討する、という意味でも言われますが、そうではなくて、本当に歩きながら思惟を巡らすという意味です。カントの散歩は有名ですが、あれは規則正しい生活、という意味だったでしょうか。
 「住」は、止まる(立ち止まる)、とされますが、実はどういう状態を考えればいいのか、と思ってしまいます。立っているということなのでしょうか。
 そういえば以前、勉強は立っている状態が頭に入りやすいと、家ではいつも立って勉強しているという、優秀な受験生がテレビで紹介されたことがありました。
 「臥」はもちろん横になって寝る(眠るのではありません)ですが、横になって考えるというのは、ろくなことを考えなさそうな気がして、いかがなものかと思います。閑話休題。》