このゆゑに、いまだ決了せざらんときは、一日をいたづらにつかふことなかれ。この一日は、をしむべき重宝(チョウホウ)なり。尺璧(セキヘキ)の価直(ケジキ)に擬すべからず。驪珠(リジュ)にかふることなかれ。古賢をしむこと、身命よりもすぎたり。
 しづかにおもふべし、驪珠はもとめつべし、尺璧はうることもあらん。一生百歳のうちの一日は、ひとたびうしなはん、ふたたびうることなからん。いづれの善巧方便(ゼンギョウホウベン)ありてか、すぎにし一日をふたたびかへしえたる。紀事の書にしるさざるところなり。
 

【現代語訳】
 この故に、まだ会得していないのなら、一日を無駄に使ってはいけません。この一日は、大切にすべき宝なのです。これを一尺の宝玉の価値と比べてはいけません。驪竜(リリュウ)の玉と取り換えてはいけません。昔の賢者はこの一日を身命よりも大切にしたのです。
 静かに考えてみなさい。驪竜の玉は求めることも出来ましょう。一尺の宝玉は得ることもあるでしょう。しかし、一生百年の中の一日は、一度失えば二度と得られないのです。どのようなうまい手段があって、過ぎた一日をまた取り返すことが出来ましょうか。歴史の書にも、そのような例は書きしるされていないのです。
 

《一日を大切にする、ということはなかなかできないことではありますが、誰でもよく承知していることですから、一言言えばすむ話のように思いますが、ここで禅師は言葉を尽くして、そのことを語ります。
 もっとも、前節までは百歳の中で一日だけでも行持すれば、それでよいような言い方でしたが、「一日をいたづらにつかふことなかれ」というのは、そうではなく、その一日が継続しなくてはならないと言っているようです。
 以前、大相撲の寺尾(今の錣山親方)が、あなたのモットーは、と聞かれて、「今日一日の努力」だと言っていました。
 その心は、自分は稽古が嫌いなので、今日一日だけは稽古すれば、明日は怠けてもいいと自分に言い聞かせながら、今日だけは、今日だけはと、毎日の稽古を続ける、ということだったそうです。自分をだましながらというのが、いかにも曲者寺尾らしく、それにだまされて稽古をしている彼自身の姿を思うとおかしく、おもしろい、しかしいい言葉だと思ったものです。
 一日だけならできることでも、その継続は大変です。
 それにしても、「すぎにし一日をふたたびかへしえたる。紀事の書にしるさざるところなり」は、笑ってしまいます。『徒然草』五十三段に、頭にかぶった足鼎が抜けなくなって担ぎ込まれた法師を見た医者が、こういうものの抜き方を書いた医書は見たことがないと言った、という話があって、当たり前だと一人吹き出したものでしたが、禅師にはこんな冗談が言えたのかと驚かされます。いや、案外、真面目に書かれたのでしょうか。そうだとすると、ずいぶん生真面目な人だったようですが。


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